3年前に、小学校と中学校が同じだった友達が死にました。
私は長く地元を離れていて、学校の友達とは没交渉でした。
20の成人式にその子と会ってしゃべったきりで、それ以来は特に連絡を取り合うようなこともありませんでした。
でも、親からの連絡でどうやら彼が亡くなったということを知りました。
葬儀はいつの間にかに終わってしまっていて、私はフェイスブックで彼が闘病中だったということ、かなり進行の早いガンであるらしいことくらいしか知らないうちにすべてが終わってしまいました。
私は、彼とは割合近所に住んでいてよく5、6人の友達同士で遊んだりしていました。
仲は良かったです。
近所を走り回ったことや、神社で遊んだことなど特に珍しいようなものはなくただただいつも一緒に遊んでいたことだけを覚えています。
どれもこれも大した記憶ではなくてありがちで百人並みの子供の遊びの記憶です。
それでも、ふと思い出すと少し顔がほころんでしまうような、お世辞にも明るく楽しく健全な生活をその後あまり遅れなかった私にとっては珍しいほどに普通の、楽しいなんでもない記憶です。
そういうことを思い出してしまって、何か心の支えになったであるだとか、そういうことは全くなかったのですが、それでも宝物のようなそれらを思い出してしまいます。
なにもなかったのに、死んだとたんに思い出すなんて都合が良すぎる気がしてひどく後ろめたいです。
もちろん、私は実家にあまりなじめずさっさと地元を出て行った人間で、振り返るようなことはしたところでなにが戻ってくるわけでもないということは十分に分かっています。
今更私にできることなんて何もないのもよくわかっています。
それでも、そんな思い出を思い出して浅ましく感傷に浸ってしまいます。
実は3年前なのにそのことを思い出したのは、彼のフェイスブックが突然更新を始めたのを知ったからです。
もしかしたら、噂は噂で実は彼ではなかったのではないか、なんて都合の良いことを考えてしまいました。
情報があやふやだったので、そんなことがあるんじゃないかと。
そうやって、フェイスブックを手繰っているとやっぱりなにかがおかしくて、もちろん15歳で会うことはなくなり20歳のたった一晩だけ飲み会でふざけあっただけの間柄なのでそこまで成熟した彼の内面なんてものは私にはわからないはずなのに、どうしても彼らしくなくて。
それでも諦めきれなくて、数年ぶりに彼と仲の良かった共通の友人に連絡をとりました。
今更どの面さげて、と言われても何もいえないと思いながらも我慢ができませんでした。どうしても、希望があるなら、どうせ会うことなんてないとわかっていながらもそれでも、亡くなっているならそれはそれで諦めがつくので
行き場のない気持ちをどうにかしたい一心で連絡を取りました。
やっぱり、彼は亡くなっていて、身内の方が彼を偲んで行っているらしいということがわかりました。
それもそれでとても寂しくて悲しくて、でも私に悲しむ権利なんてあるのだろうか、と思ってしまいます。
彼との記憶は私が都合よく美化しただけのもので、数年間会うこともなかったのに悲しんでいいのだろうかと。
でも、20歳の同窓会で会った時の
「やっぱりお前は変わってないなあ、きれいになったのに」
と恥ずかしげもなく言って屈託なく笑った彼のとぼけた顔が浮かんだりしてしまいます。
照れくさくて、小学生に戻ったみたいにじゃれあったのを思い出してしまいます。
たったそれだけの、ただそれだけの関係だったのに、こんなにも悲しい気持ちになるのはなんでなのか。
好きか嫌いか、と言われればもちろん好きでした。友達として、大切だったのだと思います。
誰かに比べての特別な感情なんてものはありませんでしたが、それでも、みんなで遊んだ記憶や彼の家でふざけあった記憶やなんかが後から、後から出てきて、そのきっかけはやはり彼が亡くなったことで。
ヒロイックで感傷的な気持ちになっているだけなのかもしれません。
そんな自分は嫌です。
でも、彼の死をきちんと悼めてなくて、3年前は平気なふりをしていました。
いつも死にたいと思っているのは自分自身だからです。
正直、私はあまり情に厚いタイプではありませんでした。祖父母の葬儀にも出ましたが何も感傷らしい感傷は浮かびませんでした。むしろほっとしたような気持ちが近かったと思います。
思い入れのある人が亡くなったことが幸か不幸かいままでなかったのです。
でも、この歳になって初めて、身近で幸せな一時を一緒に過ごして育った友達が死んでしまって私はきっと今更、三年ぶりに彼の死を実感してひどく狼狽えているのだと思います。
人の死というものはどうやったら乗り越えられるのでしょうか。
私は私で生きていかなくちゃならなくて、振り返ってなんていられなくて、そういうことはわかっているはずなのにそれでもここ数日彼のことを思い出してしまうのです。