相手を自由にする愛を充分に受けて育ち、建前やルールなどの枠組みがなくても、自分の道徳観や考える力によって人生を切り開き自分も人も愛せる人が身近な相談相手に欲しいです。自分もそうなれるという確信、そうなっていいという確信が欲しいし、自分を愛して安心していいという確信が欲しいです。
「こういう時にはこうじゃなきゃいけないみたいな会話(予定調和なリアクションをする儀式)/ 納得してなくても言うことを苦しみながら聞くのが当たり前/ 不幸と苦労が美徳(そこから逃れようとするのは脱税するようなもの)」などという価値観を親や周りの人が持っていて自分をひとりぼっちに感じます
。
自分はこの人たちからみたらおかしいわがままな人間なのだろうなと感じます。
そして共感し合える人は少数で、そういう人は私のような「首の皮一枚繋がって自由に生きる方を選んだ中途半端で自立・自律しきれていない卑屈な」人間とは関わりたくないのだろうなとも感じています。
毎日が闘いに感じるところがあります。楽だけど卑屈になってひきつった笑いで無難に人に迎合して自分を見捨てる方が「世間的には」「普通」で「当たり前」で「苦労を知っている」「大人な」方だ、という人の考えに巻かれそうになることがあります。
「自分の人生を侵食される世間が押し付ける生き方」と自分の「それは嫌だ。絶対自由に自分の価値観で(迎合したりせずに)納得できる生き方をしたい。自分を見失いたくない。感じることをないがしろにしたくない。」という意志のせめぎ合いになっています。
建前で生きてる人の力は、借りずに強く自由に自律的に、自分を誇って生きたいです。強く自律的になるにはどういう在り方でいればいいのでしょうか。どうしたら強く在ることができて、害になる人やそういう人の持つ価値観から心と人生を守れるのでしょうか。影響されないですむのでしょうか。
心の余裕がありません。優しくなれません。ほっとできません。自分にも、自分が優しくしたいと思う人にも優しくできていません。ほとんどの人とは繋がりたいと思えず、真っ当だ、素敵だ、と思う人には自分の欺瞞を見透かされてしまい居心地が悪く感じて遠ざけてしまいます。でもそうしてしまう自分も嫌いで汚いと感じます。自分は人から自尊心を奪い合う世界(モラハラ界と言うのでしょうか、調べたらそんな言葉が出て来ました。)で育ってしまい、今ごろやっとそこは異常だと気づきました。
今、眠るのが怖かったり(寝たら朝が来てしまうから、朝が来たら私を含む人を押さえつける価値観を少しでも持つ人と関わらなければいけないから)して、昼夜逆転しています。学校にもほとんどいけていません。これは中学生の頃からほとんど変わっていません。将来のことも決められていません。ときどきリストカットしてしまいます。気がつくと髪の毛を抜きつづけていたりします。口の中を噛んだり、唇の皮を剥いだり、指先の皮をむいたり、してしまいます。ネットにもテレビにも依存してしまいます。人と関わるのはもう私の気持ちがいっぱいいっぱいで本当に最小限で、表面的にしかできません。でも本当は、安全で、安心感があって自由に生きてる人とは、怖いけど通じ合いたいです。
自分のゆがみを、ひとりぼっちで見つめ続けて、向き合い克服することが、私にはこんな言い方は逃げていて甘えてるのかも知れませんができません。
自由な、自律的な人の力を、もし借りられるのなら、どうしたら借りられて、どうしたらその人にそばにいて見守ってもらえるのでしょうか。
コメント
コメントを投稿
参考:似ている悩みと対処法
ココオルに無料登録して、いまの気持ちをどんどんつぶやいてね!
ココオルユーザーの方は、ログインして利用してね!
メールアドレスでログイン twitterでログイン
みらー(臨床心理士)
π- 2016-11-24 10:24
理想のパートナーや力を貸してくれる人、というところでお悩みなんですね。
ただ、これは相手がいることですから中々難しい問題ですよね。
自由な、自律的な人の力を、もし借りられるのなら、どうしたら借りられて、どうしたらその人にそばにいて見守ってもらえるかということについては、そう言う人に出会える場に行くことが必要になると思います。
そして、そう言った人と出会うためには自分を磨く、というところが必要になってきます。
まずは自分のことは変えられるので、まずは自分のゆがみを、向き合い克服することというところから始めていくのはいかがでしょうか。
その第一歩として、どうなりたいか、どうなれると良いのかをまず一緒に確認しませんか?その次に、今何からできるのかを考えていきましょう。
前に進もうとするのはとても怖いことです。しかし、一人の力で踏み出すことはもっともっと大変です。一緒に何からまずできるか探していきましょう(^^)