物心ついたころから両親は仲が悪く毎日のように喧嘩をしています。
幼少期から今に至るまでずっとそうですし、改善してほしい旨とどのようにしていけば改善するんじゃないかと案を出すのですが、どちらもそれを実行しようともしてくれません。
正直言って両親は嫌いです。
兄がいますが、6歳年が離れていて、大学が県外だったので独り暮らしをすることになり家を出ていきました。
正直ずるいと今でも思っています。
私は一度県外の大学に入り、一人暮らしをしていたのですが、人間関係の拗れで大学に行くのが嫌になり、不登校→休学→中退となり、1年半くらいで家に戻ってしまいました。
ですので、親から離れたくても離れられない状況が続き、そして喧嘩は相変わらずです。
インターネットでいろいろと調べて見つけたサイトで子供の時に目の前で親が喧嘩をするというのがずっと続くと子供は心の病にかかりやすくなるというのを見かけたのですが、それは現在診断されている統合失調症と関係はありますか?
中学のころから学校に行きたくない・勉強をしたくないというのが顕著に表れ、高校のころは何を思ったのか進学校へ進学してしまい、出席こそぎりぎりで足りていましたが、勉強ができなかった(家で復習をしようと机に向かうと拒否反応が出て全く手が付けられなかった)ので成績もほぼ毎回赤点で、期末テストの後は毎回追試でした。
卒業前も点数が足りなく、追試を受けさせてもらって何とか卒業はできました。
このころ休んでいることはもちろん成績表などを受け取っていたので親は知っていました。
ある日、気持ち悪いから学校を休みたいと親に相談をしてみたところ、じゃあ病院へ行こうと言われました。
もちろん診断の結果は特に異常は無し、新学期が始まったばかりだったのでそれで行きたくないと思ったのでしょうとのことでした。
その帰りの車で親に放たれた一言がいまだに忘れられません。
「お前を精神病院に連れていこうかと思っていたよ」
今となっては正直連れて行ってもらって、本当の自分の状態を知り、早期治療を受けたかったですがもう後の祭りですね。
両親とも社会福祉士で知的障碍・身体障碍・児童福祉を生業としている人たちでしたが、専門外の精神に関しては一切興味がないようですね。
現在の病気が診断された後も理解しようとは思っていないように受け取れ、一緒にいるのが苦痛で仕方ありません。
愛情を受けた記憶がなく、子育てを義務だと思ってその義務を果たすことに一生懸命になっているように見えます。
とりあえず、来年度には実家から逃げる計画(両親は知っています)をしているのでこのことは良いのですが、幼少期から成人しても親の喧嘩を目の前で繰り広げられ続けた際の子供への影響が知りたいです。
最近いくつも新規投稿してしまい申し訳ないのですが、よろしくお願いします。
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参考:似ている悩みと対処法
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みらー(臨床心理士)
π- 2016-08-29 13:10
ご両親やお家の事でお悩みなんですね。
いろいろなお悩みの話を伺っていますが、整理していくと、精神疾患は、養育環境を含めたストレスフルな環境発症が影響するというのはあると言われています。
お話から考えると、確かに成長過程での環境がご病気に影響している可能性はあります。
ただ、それはすべてではなく、また環境要因のみで精神疾患が発症するとは言い切れません。
とはいえ、その環境に居続ける事は病気が悪化する要因の1つともなりますので、おっしゃるように環境を変えると言う事は望ましい事だと思います。
月並みな言い方ですが、過去を変化させる事はできないので、現在から未来にどう生きていくかというところに視点を向けていくといいように思います。
そういったところもふくめて、なにか気になる事があれば一緒に考えていきましょう(^^)
三太
π- 2016-08-29 20:18
別に彼女や婚約者がいるわけではありませんが、結婚して子供ができたら絶対に自分が親から受けた仕打ちはしたくないと思う反面、そう育てられたからそれをやってしまうのではないかという恐怖心もあります。
なので、結婚自体もそこまでしたいとも思わず、子供も作らない方がいいのかなと考えています。(病気の遺伝などがあるといやだというのもあります)
基本的に自分は6個上の兄を模倣しようとしてきました。
幼稚園の頃兄がサッカークラブに入っていたので自分もサッカークラブに入り、
小学生の頃兄が野球クラブに入っていたので自分も野球クラブに入り、兄が中学の時に塾に通っていたので自分もと小5から塾に通い、
中学生の頃兄がバスケ部に入っていたのでバスケ部に入り、生徒会に入っていたので自分も生徒会に入ろうとし、
それなりに頭のいい高校に兄が行っていたのでそこに入ろうという考えに取りつかれてしまったり。
何かをしようということのきっかけは基本的に兄だけでなく誰かから受けます。
あの人がやってるから自分もやろうと。
でも、長続きはしません。(この誰かの模倣というのはこの相談の趣旨と違ってくるのでまた新しい相談として相談させていただきますね)
幼稚園の頃サッカーはたぶん楽しいと思ってやっていたと思います。
小学生の頃の野球は楽しいとは思わず、監督やコーチの言うことが理解できずなかなか上達せず、やり始めたからにはやらなければと練習をさぼる日もありましたが、小学校卒業まで続けました。
また、中学生の頃のバスケ部は入った当初こそやる気はありましたが、アトピーで乾燥肌なので手が滑りボールコントロールがうまくできず、そのことに気づかずどうしてみんなあんなに滑るボールをうまく扱ってるんだろうと考えたり、コーチとのそりが合わず何か言うたびに喧嘩をし、いつかこいつ殺してやると思っていました。もちろん練習は休みがちでみんなのレベルには追いつけず、先輩の理不尽な言葉に傷つきましたが、その中学校は何かの部活に入ることが必須だったのでやめるにやめられませんでした。
高校は学力が足りず兄とは別の学校へ行きましたが、親が進学校を望んでいたので進学校に行き(進学校という条件で学校を探し、修学旅行がヨーロッパ一週間だったのでそれだけでその学校を選びました)、授業中は板書をすることに精一杯で頭に入ってこず、家で復習をしなければと思い教科書とノートを広げ机に向かうのですが拒否反応を起こし、家では全く勉強できませんでした。宿題もやらず、だんだんと授業に付いていけなくなり、学校に行くことが嫌になり学校に行くと見せかけて時間をつぶして親が仕事に行ったのを見計らって家に帰ってゲームをひたすらしていました。
大学はそれなりな授業を受けていたからか日東駒専レベルの大学に受かりましたが、家から通わなければいけないという理由で蹴り、一人暮らしができる受かった中で一番偏差値の高い大学へ進学しました。
その大学で文化祭実行委員に入ってしまい、そこで人間関係をこじらせて大学に行かなくなり、引きこもっていましたが休学することにして家に連れ戻されました。
(途中なのですが、いったん投稿させてもらいます。
この続きは用事が済み次第編集します。
戻ったので編集をします。
用事の間に省略してしまおうかと思いましたが、生い立ちを書いた初めての相談を気分が沈んでいるときに突発的に消してしまったので、長ったらしくなってしまいますがすべて書こうと思います。とりあえず-の記号で囲ってある長文は読まなくても大丈夫です、要は常にストレスにさらされて生き続けてきたと思ってもらえれば大丈夫です。)
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家に連れ戻される前の何か月間かは一人で部屋にひたすら引きこもり、何かをして暮らしていました。
何かというのもどのようにして暮らしていたのか記憶がはっきりしないのでどうやって、何を食べて生きていたのかは不明です。
連れ戻され、まずはじめに母親が勝手にインターネットで調べて最寄駅の沿線で栄えている駅のすぐそばにある心療内科に行くことになりました。
そこでは鬱と診断されPCと会話をしているような女医さんで、二週間ごとに通院していましたが薬はどうですか?合いませんか、じゃあこれに替えましょう、お大事に。という感じでした。
親は義務感なのか病院についてきましたので、女医さんのその態度が気に入らないと言って病院を変えると言い出しましました。
今度も母親が勝手にインターネットで調べて決めて交通費が往復二千円以上するところへ連れていかれました。それが今の医者です。
これも親の義務感なのか自分としては一人で行きたいのに毎回絶対にどちらかあるいは両方の親が付いてきます。
そこの病院で初めの方に質問された内容と処方された薬からだいたいわかっていたのですが(病気を決め打ちしていたのだと思っています)、診断名は明かさずに鬱ですねとだけ言われました。(後から言われましたが、親は知っていたが隠しておきたかったそうです)
その処方された薬の副作用の説明は一切なく、自分で調べるということもなく出されたからただ飲んでと過ごしました。
親は早く良くなるようにと思ってなのか食事はいつもたくさん出され、自分も食欲があったので出された分食べ続けました。
大学に入ったころにとある方と出会い、その方とは今でも親交があるのですが、出会った時は頬がこけてたのに今では貫禄がありすぎて社長みたいだよ(多分控えめに言ってのこと)、とおっしゃっています。
30~40kgは太りました。
また、その方とのつながりで出会った方に障害者手帳を取ると良いよといわれ、そのことを親に相談したのですが、そんなものはもっての他だと言われ相手にされませんでした。(親は社会福祉士なんですけどね。自分の子供が障害者であると認めたくなかったのでしょう)
家に帰ってから一年ほど休学していたのですが、親が違うところでもいいから頼むから大学を卒業してくれと言い出し、休学していた大学は退学し、母親が調べた大学に行くことになりました。(そのころはバーテンダーを目指していたのでサービス関係が学べるからとサービス関係の授業のある家から通える大学でした。先に言ってしまうとその大学に入って二年か三年のころにバーテンダーになりたいと言ったら大反対され、どうせ場末のスナックか何かでしか働けないんだからやめろと言われました。何のためにこの大学にしたんだろ?)
特に勉強はしませんでしたが、偏差値がすさまじく低い学校だったので奨学生で入れ、親は何を思ったのかそのことをほこらしそうにほめてました。
一年のころは無遅刻・無欠席、成績もほぼSと少しのAでした。
二年もその調子だったのですが、後期の半ばごろに友達とカラオケでオールをした次の日、眠すぎて学校に行きたくないなぁと思い始めて学校を休みました。そこから一気に転落していきました。
その休みをきっかけに学校に行きたくなくなり、後期はほぼ休んでしまいました。
三年に上がるときに休学をし、何もせず無為に日々を過ごしていました。
しかし、学校側が休学は1年しか認めないとのことだったので、しぶしぶ四年から大学に通うことにしました。
出席日数をカウントして、ぎりぎり大丈夫なように休んでは学校へ行ってと繰り返し何とか五年生で大学を卒業しました。
その大学に通っている間に処方されていた薬はジプレキサ・セロクエル・リスパダールなどでひたすらに眠くなる日々でしたが、授業中は寝ないように努力していました。(寝ると出席にならないため)
五年生の卒業する間近にようやく自分は統合失調症だと伝えられました。(最初の方の質問(幻聴・幻覚はあるのか?)と処方された薬でとっくに気づいていましたが)
で、そのころにもう一度障害者手帳を取ったほうがいいんじゃないかと言ったところ、卒業したら取る段取りをするからそれまで卒業に集中してくれとまたよくわからないことを言われました。
卒業したら一年間休ませてくれと両親に伝え、了承を得たつもりでした。
卒業し、障害者手帳を取り、障害者年金を支給されることを知ったらもっと早くとっておけばよかったと漏らしてました。(自分で取らせなかったくせに何をいまさら)
また、医者は一級間違いなしと言っていましたが大学に通っていたせいか結局二級で年金も過去をさかのぼって支給されるものは必要なしとみなされたのか支給されませんでした。(親は残念がってましたが、何言ってんのこの人たちと思ってました)
そして、卒業してから(確か)半年ほどして、母親がアルバイトでいいから働きなさいと言い出し始めました。
話しが少し変わるのですが、母親は大学三年の休学している間に脳梗塞だったかで倒れましたが一命を取り留め、定年間近だったので務めていた福祉関係の職場に復帰しました。
もちろん今までの母親とは別人になってしまい、もういろいろと大変でした。(どう変わったのかは今となっては思い出せませんが、とりあえず口が悪くなり、不平不満をよく口にするようになり、人の話を理解しようとしなくなり、ご飯の時間はあまり食べないのに夜中にひたすら食べるようになり劇太りしました)
定年を迎え務めていたところを退職し、さすがにもう働かないだろうと思ったところ退職手当?のためにハロワに言っているのだと思ったら本気で職を探していたようで、近くの老人ホームへ勤めました。(働かないと思ったのはもう前のように仕事ができるような頭ではなくなっていて、定年退職したところではいろいろと悪く言われていたそうです)
結局は3か月ぐらいで体力が続かないからと言って辞めました。(別に聞きたくもなかったですが、父親が母の職場から辞めてほしいと伝えられたらしいです。こんな感じで自分としてはどうでもいいことをたまに伝えてきます。母親が倒れてから復帰して離婚したいと言ったというのも言われました。正直聞きたくもなかった事です。)
そんな感じで母親はこちらが言ったことは平気で聞かないくせに自分はいろいろと言ってくるようになっており、仕方なく働くことを考えるようにしました。(本当は無視していたかったのですが、これ見よがしに求職情報誌をテーブルの上に置いたり、ここなんかどう?としつこくいってくるので・・・。)
母親がある日大学主催の職業訓練をやってみないか?と言い出し、それならとしぶしぶハローワークへ登録して手続きなどをしました。
しかし、どう考えても自分の状況では通えるような距離ではなく(田舎なので交通の便が悪く朝が早すぎるというのもありました)受かったら独り暮らしをしたいと言いましたが拒否されました。
すでに願書は提出してあったので試験を受けに行き面接もしました。(試験はSPIをさらに難しくしたようなもので、大学の時に就活のためにSPIの勉強をしていなかったため全くできませんでした。正直落とすための試験だと思いました)
結果はもちろん不合格で、ある意味ホッとしました。
そのあと、短期のアルバイトがあるといい、説明会兼面接を受けに行ったところ、役所?関係の書類をどこかの工場のようなところへ缶詰して休憩中も外へ出られないようなバイトだよとのことでした。(そのころもうどうでもいいやと思っていたので何も考えずにはいはいいって面接は受かるようにと頑張りました)
これも不合格でした。面接の時に募集は何カ月も前から始まっていますので、受かるかわかりませんという感じでした。たぶんそれは建前で自分のように障害者でたくさんの時間働けない人間はいらないとのことだと思っています。(面接のときに障碍者であるということは伝えました)
仕方なく次のバイトを探していたところ、家の近くの本屋が募集していたのでダメもとで障碍者ですと打ち明けて面接をしたところなんと合格しました。(今考えると面接のときは精神が安定していてちゃんと受け答えができたのと、田舎なのでなかなか人員が来ないということだと思います。)
そこに今年の一月から働いていますが、接客業なのでここもストレスが多い環境です。
親も自分の障害のことを理解しようとしませんし、日々口うるさく言ってくるので毎日ストレスがたまる一方です。
また、最近兄夫婦と旅行へ行ったのですが、自分が行きたいと希望していたところはスルーされ兄夫婦の案だけを採用しました。
孫よりもお前の方が大切だからなと言われたことがありますが果たしてどうだか。
行きたいとも思ってなかった旅行に無理やり参加させられて常に相手の行動に合わせないといけない苦痛が本当に嫌でした。
実家にいることと、両親が絡む親戚関係のイベントごとは苦痛に近いです。
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すみません、話が長くなってしまいました。
ここからようやく本題になります。
環境を変えることによる自分への影響をとても楽しみな反面不安です。
確かに訓練校へ通うこともストレスになり得ますし、自炊して食べるなど生活の負担が増えるのですが、両親から解放され、ようやく長年出られなかった土地から出られることを考えると楽しみで仕方ありません。
今まで受けてきたストレスと新たなストレスを天秤にかけるとどうしても新しい方がいいと思ってしまいます。
それは考えが甘いかもしれませんが、自分の力でどうにかなることですし、今受けてるストレスは親に何を言っても変えてくれないので自分の力では無理なものですから。
また、仕事を始めたら独り暮らしになるので(職を探すなら絶対に今の場所から抜け出せる遠いところと考えています)そのためのいい訓練にもなると思います。
おっしゃられましたように過去は変えられないので未来をどうにかしようという思いが強いです。
独り暮らしを通していい方向に向かっていければいいなと思っています。
ありがとうございます。
みらー(臨床心理士)
π- 2016-08-30 10:05
大変な環境の中で過ごされてきたんですね。
そうすると、やはり環境を変えると言うのが望ましい事になると思います。
そして、そうしようとされているのはとてもすごいことです。
未来に向けて、ご自身の力で歩いていく、そんな方向で進んでいけるといいですよね。
今できる事をやりながら、少しづつその方向に向かっていきましょう(^^)