こんにちは
多少グロテスクな内容があるかもしれませんので 苦手な方はお控えください
これまで 私がこのサイトを使って
ご相談にコメントさせていただくようになってから あと一ヶ月くらいで
1年近くになるでしょうか。
本当にさまざまなことを学ばせていただき、私が心理職につきたい
それが能力的に可能であるか その事をじっくり考える機会になりました
これを機に 私の今まで起きたこと 経験したこと みてきたこと を出来るだけ
書かせていただきたいと思います
これは自分の過去と向き合うためでもあります
そして 私の経験を知ってもらうことで 少し誰かが
この社会について 考えてもらうきっかけになればと
勇気を振り絞って書きます
長文になります 精神的にもしんどい内容だと思います
ご了承ください
これから書くことは 本当にこういった場所に書いていいものか
正直 悩みましたし 怖いです
でも 私が勇気を振り絞ることで 誰かが 何かが変るきっかけになればと
思いました
自分の過去にある意味で 整理をつけるべきだと思ったのです。
同情してほしいなどというわけでは けしてありません
それだけはご理解いただけますようお願い申し上げます。
私は先天性の軽い身体障害をもっています
極症未熟児 1500グラム以下で生まれました 普通のこの半分です。
救急車で緊急搬送され 仮死状態 (何らかの器具がなければ生きられない状態)で生を受けました
私が産まれるとき 「父は お子さんをとるか 奥さんをとるか 考えておいて下さい」
そう告げられたそうです
無事 母は 回復し 私は1週間後くらいに 自発呼吸が出来るようになりました
時間がたち見た目も反応も全く普通と変らない ちゃんと成長しているようでした。
でも 本来なら 腰が据わってくる年齢になっても
腰が据わらない
定期健診で 検査を進められ 当時最先端だったMRI画像を取りました
でも異常がどこにも見つからない
そして 別の病院に いって病名が判明しました
あえて 病名は伏せますが 難病指定の 身体障害の診断を受けました
母が言うには
その診断した医師いわく 「この病気は 歩けることも 喋ることも 書くことも出来ない」
「多分何をやっても無駄だと思います」といったような
ことを告げられたとのことでした
この病気は とても重度な場合が多く 喋れるといっただけで
とても稀な部類です
母も父も 初日こそ 落ち込んだそうですが
私のことをよく笑う子だし きっと大丈夫 そう思ったと語っています。
母は幼少期私に色々なことをさせてくれました
幸い私の障害は 非常にまれな足への障害しか 形としては現れず
歩行困難 というふうな軽度な状態ですみました
私がこうして ある程度普通の生活を送れるだけの 身体能力や
勉強能力があるのも 幼少期の母の 努力の賜物だと思います。
でも 地獄はここからでした
私は 幼児期の数年 専門の療育施設に通っていました
そこでは虐待が行なわれていました
飲み物を飲みきらなかっただけで激怒
食べ物を無理やり口に突っ込まれる
叩かれる 叱られる
椅子にロープで縛りつけられ 身動きを取れなくさせられる
おぼろげに記憶が残っています
この施設では 職員がそれをしていても それが当たり前になっていたのです
私だけでなく 他の障がい児に対しても 普通のことのように行なわれていました。
反対する親は 私の母だけで 母は異端扱いされたそうです
私はノイローゼのようになってしまったらしく おかしくなってしまったと 母は語ります
母のおかげで 私だけは何とか 状況が緩和しました
…この施設は まだ残っているらしいです。
幼稚園に入っても 地獄でした
幼稚園の職員が 親達にはペコペコしていました
どうしても歩行困難で できない事が多かった私は 出来ないことを頼みたくても
いつも職員が怒っているので 頼めず 自分でやろうとして
失敗して 私だけ別室で 何十分か 永遠に叱られ
「どうして出来ないの?!」 「もう帰っていい」 「来なくていい」 「下級生クラスにいきなさい」
等のことを職員に言われました
私はよく幼稚園にいく前に 怖くて泣いていて それを上手く母に伝えられなくて
母も気づかず 職員からの理不尽な説教にずっと耐えました。
この幼稚園も未だ残っています。
この頃 父の勤めていた会社が倒産し 不景気になるにつれて
家族がおかしくなっていきます
小学校に入っても 障害のある子は注目の的で
いつも 何らかの目線がありましたし しんどかったです
後をつかれる そんなのは当たり前
一般の小学校に入学したので スロープなどがなく
このままでは皆と同じような学習が受けられないので
訴えても 教師はイエスとは言わず 理解者の方たちに 力を借りて
母が一生懸命訴えかけて 一定の学習環境を整えてもらいました
教師にも なかなか身体障害の ほんの少しの配慮や 心情を理解してもらうのは難しく
酷い待遇を受けることはよくありました
私は そんな環境からか 自分の弱さでしょう
人を軽蔑し 嫌い 蔑む
そしてそんな自分を嫌うようになっていきました
中には ロリコン教師に目を付けられ 訴えても 母が理解してくれず
嫌な思いをしても耐えました
ストレスから視線恐怖症 脇見恐怖症 対人恐怖症 のような症状を発症していたのではと
推測の域ですが 症状が出て
自分の性根の腐った部分も繋がって いじめに発展しました
次に続きます
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イリス
π- 2019-05-24 04:22
ここからが本当の地獄でした
中学生で自立歩行が出来るよう 大学病院で手術を受ける事が決定しました
本来は 簡単な手術の予定でした
しかし 手術の1週間前 股関節から足の骨が外れていると発覚し(未熟児ではよくあるそうです)
それを繋げる手術に変更されます 突如として 教授から簡単な説明を受けただけ
教授の一存で 考える暇もなく 決定したようです。
それがいいことだと信じていました。
股関節に穴を開け 鍛えた男性の大きなこぶし大 よりか少し大きいかな
かなり大きめで 重いコの字型のボルト?を入れられました
全身麻酔からさめた後 ベットは血だらけ 起きた瞬時に
想像を絶する痛みでした
別のベットに移されると 血は拭かれていましたが
ベットの横に自分の股関節あたりから 余分な血を抜くためのチューブが生え
どう尿がされていました
言葉になりません 痛いのです 身体に大きな異物を埋め込まれ股関節付近は変形していたのですから。
でも 全身麻酔は 口から管をとうされていた状態が長かったため
蚊の鳴くような声しか 出せないのです
「…いたい いたい いたい」
叫びたいのに 叫べないのです
「痛い」 たまらなく。
母がかすれた私の声を聞き取って
「ずっとうわごとみたいに痛いっていってるんです!何とかしてください!!」
本当に母には助かりました 感謝しています 母がいなければ痛みで死んでるんじゃないか
そう思うほどでした。
そうして座薬を入れられました
しばらく絶対安静です それでも 地獄の痛みです
初日は 夜中でも検温に来られますし 痛みで寝れるのか 死んでいるのか分からないような。
当時は小児科入院で すぐ退院してしまう子が多い上に ご飯もまずい 一ヶ月しないでメニュー切れですし
看護師は白衣の天使などではありませんでした
白衣の悪魔 看守と囚人のような関係です 看護師から関係ないことでも怒られます。
寝返りも半年もっとかな 位は出来なかったと思います お風呂もしばらくは入れません
しばらく腰から足にかけて ギブスを付けられました
退院してまた地獄
父の勤めた会社の業績が悪く 父が母に怒鳴り散らすので
母はそのストレスを私にぶちまけます
口を開けば 父の愚痴か こんな子はいらなかった 子育てに失敗した
施設に捨ててくる等の暴言が飛んできます
私がその母の事を友人に相談に乗ってもらっていると 母は聞き耳を立て
「私の悪口をいったと」 母と姉ぐるみで説教 違う 激怒 激高されました
しかし当の本人は愚痴を言っている自覚がなかったようで
「愚痴じゃない 聞いてもらってるなんて思ってない」
そう母から言われて 何か我慢の糸がぷつんと切れました
母に 消えて というようなことを言うようになりました
私は 母に介護されている身
今の状態では到底 どこかに外出することも 母に監視され話すこともままならない
「死にたくても 歩けないし立てないし 死ねない」
私が小学校高学年あたりから 家族は目に見えておかしくなっていき
父は姉を殴る 父が母を人格否定する 怒鳴る
母はそれをぶつけるように 「私の言うことだけ聞いていればいい」とか干渉になり
暴言を吐くようになっていきました
父は姉を殴るとき深夜で 基本的には看過できない生活態度にたいしてでしたが
追い詰めて姉を殴る姿は やりすぎであるし 異常でした
それを私は目撃してしまい 「お父さんやめてよ!!お父さん!!」恐怖を押し殺して叫びます
でも父は別人のような形相で 声など聞こえていないようでした
怖くてその後逃げてしまった自分が嫌です
姉は自分本位で 妹の介護なんてしたくないという人ではありましたが
思春期ですし 母を奪っているわけですし 気持ちは分かります。
「おねえちゃん おねえちゃん あの時止められなくてごめん ごめんね」
そんな当時の自分の自分の声が今でも 脳裏でこだまします
姉は当時の私ををとがめることはありませんでした
次に続きます
イリス
π- 2019-05-24 04:23
また同大学病院で手術が行なわれました
激痛は底なし
股関節のボルトを抜き ネジをはめ 筋肉を切る
比較的簡単な手術でした
意外とすんなりことは進みましたが 筋肉を切った際に 神経を傷つけたようで
足が上手く言うことを利かない上に 突発的な激痛を伴う 股関節に足をはめているので
足の長さが違う これは歩かなくても かなり生活に支障をきたしました
この手術で傷跡は4箇所 将来ネジを取る手術をしなければなりませんが
信用してないので やりません
この手術は一般病棟でした
看護師の介護が荒く 看護師にトイレに連れて行ってもらうと
神経を傷つけた部分を圧迫してしまうようで 途轍もない激痛を伴うので
車椅子にも乗れないので
土足で歩く 病棟の道を這いずって 脂汗をかきながら自力でトイレに行きました
そのほうがましなくらい 看護師に介護されるのが激痛を伴ったのです
それが看護師にばれて 激怒されました
車椅子に乗れるようになってから 色んな科の病棟を回りました
原因不明 病名すら付かない 症状の方
片目が眼帯 片目が飛び出たような方 黄疸の方
死ぬんだと叫びながら 後日亡くなった方
最も心にあるのが
蛍光ペンで塗ったような黄色い肌に 紫黒い大きな多量の班点
沢山のチューブでつながれた方の姿でした
扉から一瞬見えただけなのです
それでも鮮明に覚えています
延命治療だったのでは と 思います
「生きるって何・・・?」
あの頃から 延命が正しいのか 考えています
器具を使って歩けるようになり 私は回復していきましたが
筋肉を切ったことで神経を傷つけ うまく言うことの聞かない足は なかなか大変なものでした
これは本当に自立歩行をするための手術だったのか?
以前より酷くなっていないか? 以前から器具を使ってなら歩けていたので
手術の必要性に疑問を感じていました。長く歩けるようになるためなのだろうと思っていました。
退院し 希望が見えた矢先 学校では ズル休みだったのでは
と噂されている
回復していたはずなのに 何かがおかしい 痛い
痛みは日に日に増していく
痛い 痛い 痛い!
「お母さん 痛いよ 歩けない」
私が話しても 「何言ってるの?歩けるでしょ?」
これは本当に許せなかった
母を死ねばいいとおもいました。
母は私が具合が悪いというと怒るので あまりいえず 振り絞った言葉なのに。
レントゲンをとっても分からない
MRIをとって判明しました
股関節にはめた 足の骨の頭の部分 骨とう が 潰れてグシャグジャになっていました
身体障害児の体はアンバランスなので 高齢者などに該当する手術は向かない
それを聴いたのはずっと後の話です。
また母親に介護される日々
相変わらず 聞き耳は立てられる
暴言 母親にしんでほしかった 暴言と干渉
この頃からリスカを始めました
ばれたので もう衝動的にどこでも切るようになり
母からはどうしてそんなことするの だけ
当時自分の身体が身体でないような感覚に陥っていたので
離人症 に近い症状に陥っていたのではと思います
当時は逃げたくて空想の世界に浸っていました。
当時 あんなことをしちゃえば?というような声が頭の中を駆けていました。
気づいたら 自分の髪の束が手の中にあり その手首からは 少々血が流れている。
記憶がないので 乖離し 無自覚で 抜毛行為とリスカをしていたのではと推測しています。
それを発見した母に 尋ねられたので 「なんでもない」
というと 母は 「そう」 としか言いませんでした。
心配して欲しかったのだと思います
どこでも切るようになったので 母が刃物を隠しました
たったの一年ちょっと位の期間でしたが 末期だったと思います
隠して 家捜しして 発作のように身体を 刺したりしました
姉が 死んだ魚みたいな目で 「そんなに死にたいなら死ねば?」
といったので
ロープで首を何十にして縛りましたが ぐるんぐるんして 苦しくて
痛くて 気持ち悪くて 怖くて しねませんでした
家から飛び降りようとしましたが
「 自分を蔑んだやつらのために死ぬの!? そんなの悔しいでしょ!?」
頭の中の自分に怒られて
「私は死なない 絶対」 そう決意しました
身体が回復し始め高校にいき始めました
次第に障害をもった方との交流も増え
話を聞くうちに 要らない手術をされた
検査のために 命がけの実験をされた
疾患がある事を親が受け入れられずに片親が失踪 片親はうつ病で親の面倒を見ている
家族みんなが疾患持ちで 学校に行けず 兄弟の世話をしている
疾患を持った子供を受け入れられず 虐待する
家から追い出す
疾患を持った子供を受け入れられず自暴自棄になった親が 借金まみれで 家族崩壊
家も失った 親族が自殺したなど
私の想像よりもはるかに辛い思いをしてきた方々が
沢山いました
中には 命にタイムリミットのある病気の方や 病気の方がなくなったという通知もきました
疾患や障害をもち 苦しい人生を歩んできたはずなのに
彼らはみな 優しかったのです
お互いを ありがとうなんていわれなくていい 助け合おう
そういう行動が 彼らには心に刻まれていたのです
私は 何て愚かだったんだろうと 思い知らされました
自分が悲劇の主人公のような顔をして世界で一番辛いんじゃとか思い込んで 求めることばかり欲して。
話せる 帰る家がある 寝る場所がある ご飯がある
親がいる
手が使える 文字が書ける 目が見る 足以外の5感が使える
勉強も出来る pcも使える
それが 「幸せだったじゃないか! 何て馬鹿だったんだと」 泣きそうになりました
それから 私は障害のある方の 人生を聞かせていただきたいと思うようになったのです。
そして自分のことを話してから 相手の方が 話したいと思うようになってもらえたら
話していただく 聞かせていただきました
そして 「 貴方に話してよかった ありがとう 」そういっていただきました
違う 私が 話を聞かせていただいて 苦しさを聞かせていただいて
ありがとう なのに。
それが 私の原点です
高校卒業して 父の暴挙は酷くなりました
父の会社もいつ倒産するか分かりませんでした。
壁や テーブルに穴が開き 定期的に激高しては 癇癪を起こし
「お前は一人じゃ生きていけない 母さんが死んだら死ぬんだろ」といわれました
いつか私も殴られる そう思いました
それに合わせて 母親へ父は暴言が酷くなり
母は私への過干渉が酷くなりました
車椅子ですから 障害者雇用
母は 公務員以外認めない 障害者専用の車の免許を取るよう
合宿にいけと半ば勝手に強制しました
環境は最悪でした
教官は教えてくれない ベットも狭くて落ちそうになる 汚い 私の運動神経も悪かったですけどね。
公務員試験の対策もしました
辛かったです 敷かれたレールを歩くということに
母にそして他の面接も試してみたいというと ただただ 怒られ
これにはさすがに 姉もおかしいだろう
あるいは私の体調不良の薬を買ってきてくれないことも おかしいだろうといってくれましたが
無意味でした
公務員試験も途中で落ち 免許も 身体障害者の運転は大変で
もう心身無理でした
それから ストレス性低音難聴 めまい
から
姉が勝手に 母の別居計画をばらし
姉が彼氏のうちへ家出
突如の引越し 別居でした
それから 私は心身やられ 母は 仕事に出なければいけないストレスで
当り散らし
私は 人が怖い 外に出れない 母と喋れない 突如パニック 病院に行けない 話せない
寝られない ご飯が怖い 入らない
一日水だけなんて時もざらでした
そこで パニック障害の 闘病 治療体験記を目にしたのです
私と似たような性格で 似たような環境で育った方のように感じました
それを元に 意識改革 生活習慣 食事
そして 私は自分の人生を自分で生きてこなかった という自覚
それは 母に逆らっても無駄だという 一種の 共依存心と責任転嫁の罪をちゃんと
見つめなければ 母に言っても無駄 は半分逃げで 自分自身を放棄し
共依存に陥っていたのだと気づきました
それから 私は 「母を母として見るのを 思うのをやめます」 と断言しました
出来なそうなことでも 自分でやれるよう
工夫して 母の指図をのけました
殴られる覚悟でした
体調のいいときは 家事もすすんでやるよう心がけました
対等にものをいえるよう 論破する能力もつけました。
自分の弱さを知り認め 改善し 治す必要のないところは受容する
自分自身のそれまで これから全てを愛し 認知の歪みを治し
自分自身の全てを受け入れる これは 母 私共に
精神的肉体的自立に役立ち 改革になりました
今は精神科で薬をもらい 私の心は安定してきているかと思います
診断は出ていませんが パニック障害 + うつ病に片足突っ込んで+聴覚過敏みたいな感じだったんだと思います
心の安定まではまだまだですが。
低音難聴は完治し めまいも ほぼ完治しています
こうしていくと 母を他人としてみると 母がご飯を作ってくれていたのは
「私に生きていて欲しいと思ってるからじゃないか」
さまざまなことに気づきました
「愛されていたとしりました」
母が「姉妹の幼少期からずっと アルバムを作り続け持ち続けていたこと」
父が「私の保育器の姿の写真を 姉の写真も ずっと持ち続けていたこと」
母が 平成で一番心に残っていることは 大切なことは? と聞くと
「子供達」 と答えること
父が 「母が私の出産の際 お子さんをとるか 奥さんをとるか 何て選べないといっていたこと」
父が 「父の日に書いた私の絵をずっと持ち続けていたこと」
姉が 「私との写真を携帯の裏に貼っていたこと」
母は 「私達姉妹を生むとき2度とも命がけで 私たちを生んでくれたこと」
私の家族が「私の身体障害を恥じたりせず 受け入れていてくれたこと」
私の人生は辛かったです 母は 暗黒期のことを 「何でそんなこといったんだろ」
なんていってます 覚えてないみたいでした けしてるんでしょうね 辛くて。
今は私の夢を応援し 私のしてきたことをみて 認めてくれました。
母も必死だったんだと思います 身体障害の娘 理解しない社会 父の言葉の暴力 姉の反抗
父も 姉も 姉は多分 愛されることを実感したかっただけなんだと思います
姉はまぁ自分勝手で酷い人でした でも 言葉をかけるなら
「お母さん とっちゃって お父さんから守れなくて ごめんね」です
姉とは連絡取れないですけどね。両親の別居時 泣いていましたから 私はこらえてそばにいました。
泣いてあげればよかったかもしれません
父に何年ぶりに電話して 酒癖悪いの 体調崩してやめたんでしょうね
聞いたこともない優しい父の声になってました
私の愚痴を聞いてくれ、
私が 全て 終わり 水に流すって言うか なかったことって言うか
終わったことにする と話したら
少々の沈黙の後に、 父は 「うん」 といいました
以前だったら考えられない反応です。
分かったんだと思います これまでのこと 私の意図を。 時間がたって やっと。
私は父を許しました(殴ってた行為は許せませんが)
私は母を許しました
私は姉を受け入れました
私は自分を許しました 私は自分を受け入れました
私は家族を受け入れました
機能不全家族でしたが 家族だったのです
私の夢 それは心理職に就くこと 心の苦しみを軽減するお手伝いがしたい
私自身が苦しみ 沢山の人の苦しみを 自分の目で見たから
そのきっかけを与えてくれたのは 高校の数学教師です
喋らない人でしたが 私の前だと話したくなるのだそうです
そして 「君はカウンセラーに向いているといわれたのです」
そんなきっかけでした
苦しむということは 人の苦しみを知ることの出来るきっかけではないでしょうか
身体障害の私は それなりに辛かったです
でもこういう辛い思いをしなければ 身体障害をもたなければ
そのような方のこと 自分のことを 「自分は関係ないとか 自分だけ不幸面するような 自分しか見れない」
愚かな人間になっていたと思います
私はあった人には自分の病名を話していますし それで偏見が経るなら
障害があってもいいかと思います
障害が治りたい? ときかれますが
このままでいいと答えます
この身体でこの辛さを乗り越えてきたのだから。
私は 強くありません むしろ弱いです HSP という敏感体質を持っていますし
精神疾患にかかりやすい 人間体質です
感受性が強すぎて むしろ 心理職なんか向かないんじゃないかと思います。
(気になる方は調べて見てください)
でも辛い人はいっぱいいて 多分人は
辛いのを受け止めてくれる人がいないと
つらいということも許されず なくことも許されない人がいる
もちろん相手の自立心にはかかっているだろうけど
それを手助けする仕事がしたいと そう思う事が出来ました
そう思う事が出来たのは
多分 辛い思いをしてきて それを優しさで受け止めてくれる人と
自分を受け入れる工程ができたから。
辛い体験はきっと無駄じゃない
私より辛い思いをした人はきっと五万といる
辛い経験は糧になると私は信じています。
最近 虐待などが多いですが
これから 親になる方々 自分のお子さんに 「何か問題があっても 愛してあげられますか?」
周りの人たち 「自分だけがよければ 誰かを傷つけても って思う気持ちはいつか自分に帰ってきます」
「 自分の人生を放棄すれば後悔が付き纏うでしょう 」
「 少し何か考え方を変えるだけでも 人生や対人関係は変ってくると思います 」
私の人生を見つめなおしたかったのでかきました
誰かの参考になれば 幸いです
これは 私が実際に 体験したり 本人様から聞いたことです
そんな世の中があるってこと 少し考えていただければ
そして 大人に振り回されず 自己意識を持つことを忘れないでください
周りの情報に惑わされないでください
自分のいいも悪いも受け入れてあげてください
それができるのは自分だけだから
自分がたとえ今死んでも 後悔しない人生を生きていって欲しいです
後悔は一生付き纏います
ご自身の人生を決められるのはご自身だけですから。
私は私の人生を生きていこうと思います
最後まで読んでくださった皆様 ありがとうございました
過激な表現があったと思いますが
明確に伝えたかったのです
ご理解いただけますよう よろしくお願いいたします。
イリス
π- 2019-05-24 04:25
ありがとうございました
現在私の足には計4箇所の傷跡があります
医者を目指す方 お医者様は 患者の人生を左右することを知ってほしいです
時間は帰ってこないので。
もし 手術はどんな痛みなの?
どんな麻酔だったの?
もしご質問等があれば プライバシー 以外のことは出来るだけ答えられるものは返答いたします。
身体障がい児は 不要な手術を行なわれた
虐待を受けた等 という経験をした方が多いです
私自身専門家に尋ねたところ、不要な手術だったのではないか
という見解でした
痛みがある程度ひくまで 4年 5年はかかったと思います
身体障がい児の親御さん その当事者の方
私の体験が少しでも参考になれば幸いです。