赤ん坊の頃はあまり泣かない子だったという。
幼稚園に入り、自我がはっきりとした頃には一見快活な子供に見えていた。
自分以外の人間と接し、仲良くなったり喧嘩をしたりもした。両親や祖父母に大変甘やかされて育った。
叔父のPS2のゲームを勝手に奪って遊んだ。
祖父母がドライブに連れて行ってくれると言うのに関心はゲームばかりに向いていた。
小学生の同級生のストラップを盗み母にプレゼントとして渡した。
叔父が部屋に彼女を連れ込んでいる最中もお構いなしにその場でゲームをして遊んだ。
夏休みに連れて行ってもらったキャンプ場では何もしなかった。テントを張るのも肉を焼くのも全て叔父と母に任せきりだった。
気に入らない同級生には蹴りや暴言を吐いた。
今思えばこれらは全て「他者をモノとしてしか見ていない」が故の醜い行為だった。幼かったからという理由では擁護しきれないと自分でも思っている。本来ならその都度積み重ねるべき後悔が、今になって一斉に押し寄せてきている。

中学生になってからは親の意向で隣町に移ることになる。それまで小さな片田舎の小学校で育ってきた自分にとって、大勢でいる連中は脅威であり外敵であった。向こうにとってみればこちらは絶好の獲物だった。
本当は行きたかった地元の中学校に行けなかったことが理由で徐々に暗く大人しい人間になっていった。
追い打ちをかけるように野球部員を中心としたクラスの連中から執拗な嫌がらせを受けるようになる。
自分ではそれを「いじめ」とは認めていなかったが、ある時野球部顧問の担任が全クラスメートの前で自分に仕掛けてきたグループの一人に「そういうのをいじめって言うんだよ!分かったか!」と叱った。
それが原因で自分は今までされてきたことをいじめだと認めざるを得なくなったし、クラスメートにもあぁコイツはイジメられてるんだと認識されてしまった。味方はいなかった。親も、教師も、校長すら、事の本質を理解しようとしなかった。

どうしても地元の中学に戻りたかった自分は小学校の頃にお世話になった児童館の先生に協力を仰ぎ、母親に電話で自分の悩みと意思を代弁してもらうことにした。ボロボロではあったが何とか転校したい旨を親に伝え、自分は地元の中学に転校生として戻ってくることに成功した。「ここなら敵はいない、馴染みのある仲間と共に楽しい日常を送れる」と思い込んでいた。この油断ともいえる勘違いが後に更なる過ちの種となる。

転校してきてまだ日が浅いころ、パソコン室での授業中、それまでは普通に親しい会話などをしていたクラスメートの一人に突如禁句を言われた。(この禁句は自分以外の人間も言われて気分のいいものではない)
自分はその瞬間からそいつを敵として認識した。外の世界のみならず、内にも敵は潜んでいるとこの時理解した。
その日以降、自分はそいつと自発的には一度も喋っていない。この敵対は卒業までの2年半ずっと続くことになる。
奴へのヘイトは溜まりまくった。少人数の学校は見方を変えれば狭い水槽で、自分はそんなところに殺したいほど嫌いな人間と2年半の間幽閉され続けた。
言った本人は何が悪かったのか理解もしておらず、そのことが余計に腹立たしかった。

考えてみればそいつも小学生の頃に途中から入ってきた転校生だった。
やはり規模の大きい所で育った連中はクソだ。やつらはタライの中で乱雑に洗われるジャガイモみたいなもので、一つ一つ丁寧に栽培された自分たちのような、元々この地の人間だった者とは根本的に相容れないんだ、と思い始めるようになったのが14歳の頃。

さらに酷いのが部活動。隣町の中学にいたころ、入学式の時点で転校して地元の中学に戻る計画を立てていた自分は、戻った後の部活の遅れを少しでも無くそうと考え、地元の中学にも唯一存在しているテニス部に入ることにした。が、残念ながらそこはマンモス校。嫌な奴なら腐るほどいる。テニス部も例外はなく、人格の腐ったゴミ以下の連中の溜まり場に紛れ込んでしまうのだった。クラスでも、そして部活でも、担任の言う「いじめ」を受けた。
「お前の常識はここでは通用しない」「真面目にやれよ雑魚」 同じ年の人間から散々プライドや矜持を踏みにじられ、自分はテニス部の人間、しいては社会に蔓延る人間全てを敵と見なす殺意の塊と化していた。

そんな劣悪な思い出しかない連中と、部活の大会が開かれるたびに顔を合わせることになってしまった。
それだけならまだしも、自分はあろうことか先述の禁句をかました殺したいほど嫌いなソイツとダブルスを組まされ続けるというおまけつきだった。加えて試合では全く勝てない。自分は精神面でも試合でも、一方的に叩かれ続けた。「文句があるなら試合に勝ってから言え」と言われた。自分には感情を吐き出す権利さえなかった。
名前が変だと笑われた。自転車を壊そうとされた。通りすがるだけで脅された。

地獄だった。苦痛でしかなかった。嫌な顔をもう二度と見たくないから地元の中学に戻ってきたのに。
自業自得な面もあるけど、これでは散々だ。
フラストレーションは留まることを知らず、ついに自分は意識を失った。病院へ運ばれた。
よく分からない点滴を打たれた。体はどこも悪くないのに。
このころ15歳。良いことなんて何一つなかった。

そんな地獄の中学生活も終わり、自分は隣町の高校に通うことになった。
どこか遠い地の高校に通うことも考えたが、どうせまた中学一年の頃みたいになると諦めきっていたので、自転車で通える一番近い高校に進学した。
入学を控えたある日、進学祝いで祖父母と一緒に温泉旅行に行かせてもらえることになった。この温泉旅行が自分にパラダイムシフトのようなものを起こす。
久々に祖父母と三人で過ごす時間は、それはそれは幸福だった。とても満たされていた。赦されていた。
今までのストレスに塗れた生活で疲れ切っていた自分にとって、その時間は新鮮であり、どこか懐かしくもあった。
懐かしく?いや違う、自分にはずっと前に、確かにこういう時間が存在していたはずだ。と、この温泉旅行をきっかけに、
自分は頻繁に自分自身の過去を省みるようになる。
振り返ってみれば、自分は祖父母をなんて邪険に扱ってきたんだろう。こんなに暖かい居場所がすぐそばにあったというのに、いつもゲームばかりで彼らに何一つ恩返しできていない。幼少の頃の貴重な時間を無為にしてしまった。そうやって過去の自分を激しく悔いた。
それからは過去の時間を取り戻すかのように、勉強する時間も割いて祖父母と積極的に会うようにした。祖父母、特に祖母はとても喜んでくれた。自分も嬉しかった。祖父母宅にいる間は救われている気がした。
後にかつて叔父が付き合っていた彼女と破局し、精神疾患を抱えた彼女の両親が激怒して祖父母に200万の慰謝料を請求、祖父母がそれに応じていたことを知った。自分が二人がいる間に割って入りゲームで遊んだりなんかしていなければ結果は変わったのかもしれないと考えると罪悪感が止まらなかった。
温泉旅行の後に、祖母が死ぬ夢を見た。失うのが怖くなった。

高校では頭のいい人達が優先して入れられるクラスにどういうわけか入れてしまったので、以前のような低俗な輩はおらず嫌がらせを受けることもなかったものの、元々好きでも何でもない勉強に全力を注ぐ人達についていけず成績は低迷。家に帰れば父と母は不倫がどうのこうので毎日喧嘩していた。家庭には常に嫌な空気が流れ、学校では優良クラスの一員という肩書とそれに見合わない実際の成績のギャップに苦しめられる。逃げるように祖父母宅へ行くも、幸せなのはその時だけ。家に帰れば父だけでなく自分の成績にも不満を抱えた母の冷たい視線と、時間を割いた分の勉強のツケが待っている。それが嫌でまた祖父母宅に行く、という負のスパイラルができていた。
それが祖父母への愛ではなく、ただの依存であったと自分で知るのは数年後=今の話。

祖父母にも毎日会えるわけではなく、中学の頃よりも一層沈んでいたところへ追い打ちをかけるように、
父の末期がんが判明する。
家庭から眼を背け、祖父母のことしか考えていなかったせいで、結果として父の異変に気付くことができなかった。
ここで自分は再び激しく後悔する。気付けなかったことが悔しくてたまらなかった。自分の情けなさに失望した。
また温泉旅行に行った後のように、過去の時間を取り戻すかの如く、父と積極的に向き合おうとした。

それからは、母も多少は態度を改め、家族全員が互いに対して穏和になっていった。まるで残された時間を噛みしめるようではあったけれど、小さいころに見ていた仲の良かった夫婦に戻りつつあった。それを見ていると安心できた。両親が笑っているとそれだけで満たされた。

生活のほぼ全ての時間を父と祖父母に向けた。当然勉強はできないし成績も地の底だったけど、大学進学を生贄に今を最高の状態にするつもりで生きていた。祖父母とも色々な所へ出かけたし、家計的に多少無理はしたが両親とも何度も旅行に行った。

高校三年になり、周りが進学進学と声高に叫ぶ中、自分は進学校の一番偏差値の高いクラスにいるのにも関わらず、大学進学を希望していなかった。できることなら地元で働きたかった。が、当然大人たちにとってみればそんなのに納得できるはずがない。母も、そして父も、自分の大学進学を強く望んでいた。
期待を裏切りたくない、失望させたくない。そんな思いで渋々デフォルト状態の学力でも入れそうな大学を受験し、合格。
望まない形ではあるが、大学生として親元を離れ一人暮らしをすることになった。これが更なる地獄の始まり。

嫌々ながらも大学生になったが、実を言うと働きたいから働こうとしていたわけではなかった。
ただ家から離れたくなかっただけなんだと思う。
いつ父が死んでしまうか分からない。最期を見届けられないのは嫌だ。そんな考えだった。
初めての一人暮らし、慣れない環境、行きたくもない大学、聞いてるだけで苦痛な講義。ここにいる意味を問うには十分なきっかけだった。

ゼミで強制的に知り合わされた人達とも連絡先を教えあったりしたが、とっくの昔に人間嫌いが形成されているので友達になれる気なんてしなかったし、なる気も更々なかった。当然友達はいない。知り合いもいない。気軽に相談できる相手もいない。孤独だった。それでも人間と接するよりは気が楽だと思った。

加えて父と祖父母のことが気になって仕方がない。自分が傍にいればどうこうできる問題ではないことは重々承知していたが、それでも考えることを止められなかった。相対的に身の周りへの注意力がなくなる。

母が免許は絶対必要だからというので連行される形で自動車学校に通ったが、運転中に赤信号を無視してしまった。
これが日常生活に支障をきたすレベルと言っていいのかは分からないが、その位集中力は欠けていた。

何をやっても手につかなかった。
日が経つごとにどんどん無気力になっていく。
生きる意味を考えては希死観念にとらわれ続けた。

入学前はある程度あった働く気も、完全に消え失せた。その頃母は離職し、父も定年後に同じ職場でバイトにも近い待遇で働き続けており、父の薬にかかる費用も嵩んで家計が非常に厳しい状況であった。
両親は自分にバイトをして月数万でもいいから家に送ることを望んでいたが、最早バイトができる精神状態ではなかった。

前期の授業は受け切り、試験も何とかパスできたが、この時点で既に限界だった。
後期が始まって2週間目で心が折れた。大学生にして初めて不登校の引きこもりになった。
ゼミの先生が自分の悩みを聞いてくれようとしたが、結局その人は自分を大学の授業に復帰させることが目標で、これから先どうしていくかを考えてくれてはいなかった。
生徒向けサポートセンターの相談室も利用した。悩みを聞いてくれはした。カウンセラーの基本方針なのか、自分の奥底に潜んでいる悩みの答えを引き出す手伝いをする、といった旨のアシストしかしてくれなかった。その答えがない、あっても得られない状態をどうにかして欲しかったけれど、もう自分でも何をどう悩んでいるか正確に言い表わせなくなっていた。

面談で話し合いを重ね、最終的に自分の口から大学に行けていなかったこと、大学を辞めて実家に帰りたいことを親にカミングアウトすることになった。もう以前のように誰かに電話で代弁してもらうことなどできるはずがなかった。
親は酷く失望した。祖父母も同様だった。
「働く気はあるんだよね?」と母に何度も確認されるように言われた。「学校には行きたくない、働きたくもない」とは言えなかった。
現在は仕事を探しながら実家で暮らしている。日に日に弱っていく父に自分ができることは何もない。

自分には夢がなかった。将来の夢、目標、欲しい物、やりたいこと、何もなかった。
生まれた時から持つ「他者をモノとしか見られない」という根本的な特性に、今までの忌々しい経験が足され、人を好きになることがどうしてもできなくなっていた。人以外の何かを好きになることもできなかった。自分には好きなものが何もなかった。
人の業を、世界の理を、知れば知るほど嫌いなものが増えていく。
強いて言うならば、自分は過去が欲しかった。昔に戻りたかった。
普通なら誰もが諦め乗り越えていける時の流れを、未だに受け入れられずにいる。
自分の力で変えられたかもしれない結果を変えたかった。間違えた選択をやり直したかった。父を救いたかった。
そんな子供みたいな夢を本気で求めている。神様だろうと自分の願いは絶対に叶えられない。それは分かっている。
分かっているからこそやるせなく、生きる気力も湧いてこない。

ひたすら辛いだけの日々が続いている。救いがないというならそれでもいい。
それでもここから先、自分がどうしたら人並みの生活を手に入れられるのか、その答えがあるなら知りたい、教えてほしい。
一体自分はどうすればいいのか。どうすれば頑張れるようになれるのだろうか。