ひとりぼっちで相談できる人なんていなくて死にたいって考えるけど死ぬ勇気なんかなくて、電車に飛び込んじゃえば楽とか思うけど賠償金とか母にこれ以上迷惑かけてどうするんだって考えるとできなくて結局死ぬなんてできなくて、何もできないやつなんだなってまたむなしくなって。
社会に順応できないのか人との関わり方がわからなくて大学でもバイトでも気持ちが上手に伝えられなくていつもひとりぼっちな気がしてでもそんな理由で投げ出すわけにはいかなくて周りに何を思われてるのかびくびくしながら毎日生きて今日もむなしくなる。
死にたい殺されないかなって思う。生きたくて殺されてしまった人の代わりに私が殺されれば良かったのに。思い返すと幼稚園の時から仲間外れにされてた、ずっとこんな毎日なのかな。1人が怖くてどこに行くにもぬいぐるみがなけゃ行けなくてこんなんでこれからどうなるんだろまたむなしくてかなしくて理由はわからないけど無意味に泣くだけ
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参考:似ている悩みと対処法
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初代あかり(殿堂入り|ココオルスタッフ)
π- 2015-08-09 11:08
今は誰にも相談できる人がいなくて、死にたいと思うほどつらい状況のようですね。そんな中ココオルにご相談頂き本当にありがとうございます。ぜひ少しずつ一緒に今の状況をどうやっていけばいいか、考えていきましょう(*^_^*)
現在の辛いご状況ですが、いつ頃から続いているでしょうか。幼稚園の頃から仲間外れということですが、中学や高校時代はどうでしたか。
あやか
π- 2015-08-09 12:22
中学一年生の終わりまでは話す人はいました、クラスでは誰か1人をいじめる事がクラス男女全員の流行りのようでした。終わり頃までに4人ほどいじめられた子がいました。最後にターゲットになったいじめられてる子と話したりいじめに参加しなかったので最後の最後でいじめにあいました。私が話していた子は自分がターゲットから外れると私と話さなくなりました。他にももしターゲットになってもいじめない仲良くすると話していた何人もの子もそうでした。その後クラス替えがあり先生方が主犯の人達とクラスを離してくれたので短い期間で済みました。いじめられた時学校に行きたくないと母に相談しました。しかしあんたもいじめに加わった事があるならしかたないと言われました、最もだと思います。しかし当時の私はどこにも味方がいなかったからかばって欲しかったのだと思います。母に反発するようになりました。私の家は片親で貧しいので欲しいものの我慢はもちろん周りの子より持っているものも劣っていました。小学生中学生の頃はその事をとても気にしていました。その事も反発の原因となり何度も大げんかしました。母に自分の事を話さなくなりました。
中学二年は友達を作る事が嫌になりクラスの控えめな男の子のグループに混ぜてもらっていました。なので男女別になる体育は悲しいものでした。中学三年生はその男の子たちとバラバラのクラスになってしまったので受験勉強に専念していました。その頃から母と塾の授業料の事で揉めました。高い費用だから当たり前だと今は思います。なので特待生の成績をとって授業料割引にしたり私なりにがんばりました。それでも成績が悪いとか家の事をしないとか言われました。母は昼間働いていたので疲れていたのだと思います。夏休みの前大きな喧嘩をしました。それまでは言い返さず聞いていただけだったのですがティッシュの箱を投げられたあとぶたれそうになった時抵抗しました、そしてその時今の私の力なら闘えると思ってしまいました。そして母と引っ掻きつかみ合いです。母とは口をきかなくなりました。塾の授業料だけは払ってもらっていたのでその前の年にもらったお年玉でご飯を食べたり塾までの交通費にしたりもちろん冷房は母のところにあったので暑い中耐えたのを覚えています。母は私と話さなかった2ヶ月の間父と会っていたようで父の悪口を聞かされいたのでそれも私はもやもやしていました。夏休みが終わりお弁当を作って学校に行き少し経った時母と話すようになりました。金銭面精神面少しホッとしている自分がいました。その当時わたしはネットは使えないメールだけのできる携帯を持たせてもらっていました。遊びに出かける事もなかったので塾の仲間とやり取りができる唯一の手段でした。それを取り上げられてしまいました。私にとって携帯はなくてはならないものでした。また母と揉めました。すると母は父に電話をかけ父を呼びました。父に私の面倒を見るように言いました。父は7歳の時母と毎日のように喧嘩していてその後私が学校に行ってる間にいなくなっていた人です。私の事をどっちが引き取るかで揉めていました。母の方に行きたいというとママを苦しめたいの?といわれたことをとても覚えています。父にいいイメージを持っていませんでしたが父が面倒を見てくれることになりました。家は母と二人、金銭面を父が見てくれるということです。母とは同じ家に住んでいるのにずっと口を利きませんでした。父はお弁当ようにと冷凍食品をたくさん買って毎週持ってきてくれました。朝ごはん用に食パン夜ご飯はコンビニで買いなとお金をくれました。とても嬉しかったことを覚えていますが母が良い顔をしていないことにびくびくしていました。11月また母と揉めました。私はもう自分がコントロールできなくなり警察に電話してしまいました。私は児童相談所に連れて行かれました。児童相談所の方々が優しくて怖かったことを覚えています。母に児童相談所の方が話をしようと言ったそうですがあんたたちに子育てを鑑賞されたくない今まで育ててきたのは私だといって拒否したそうです。受験が近かったので学校にも塾にも行かないで児童相談所にいる生活が怖くなり家に帰りたいと言いました。ただただ警察の方児童相談所の方に迷惑をかけ家に帰りました。その後は父との今まで通りの生活です。進路の面談にも父が来ました。父は勉強のことに無関心なので自分で近くの高校を受けることにしました。受験の2日前雪が降りました。いつも通り自転車で30分の塾に行きました。帰りに父と母が車で迎えに来てくれました。私は母に反発していたので無視して自転車で帰ってしまいました。びしょびしょでした。今考えると母が父に迎えに行こうと連絡したのだと思い間違えたことをしたと後悔しています。びしょびしょになり案の定熱が出ました私立受験の合格は決まり公立受験の前日です。ふらふらしたまま受験しました。もちろん落ちました。母には責められ父にはため息をつかれました。何よりたくさん勉強したので悔しくてたくさん泣きました。私立高校になんていったら授業料の事で文句を言われるのは目に見えていました。なので私は高校に行かないで働くと言いました。何より家から逃げたかった、父は無関心、母は高校くらい出してやるといいました。母方の祖母から電話で泣きながら高校までは行こうと言われました。母は授業料の文句は言わないと約束してくれました。そして高校に行く事になりました。私立高校は何でも自由で自己規律を守りなさいという自由な学校で制服、髪色全て自由でした。ある程度のレベルだったので女子高ですがいじめはありませんでしたが周りを見ると裕福な子が多く制服は指定のもの持ち物はボロボロの自分が劣って見えました。自分に自信がありませんでした、高校生特有の外に遊びに行く事もなくもちろん友達はほとんどできずずっと音楽を聞いていました。学校をやめたい、自分の弱さからそればかり考えるようになりました。6月母が救急車で運ばれました。胃に穴があいてしまったのです。母が死んでしまうのではないかと考えると涙がでました。それから1ヶ月学校に行きながら母の病院に荷物を届けに通いました。母は退院すると穏やかな人にまるで変わっていました。高2高3、母は弁当も作ってくれたしご飯も作ってくれました。そしてとても優しかった。わたしは学校に行ったり行かなかったりアルバイトばかりしていました。母は働いていたので学校に行かない私に学校に行くように言いました。手術をして体力のない母が手を出せないのを良い事にわたしは適当な事ばかりしていました。そして友達も学力も得ないまま卒業。大学は附属推薦を成績でもらえたのでそこに進学しました。大学の費用を稼ぐため母は一日中働いています。帰ってくるのは週に二回深夜に眠りに帰るだけです。食費と交通費はもらっています。掃除洗濯炊事と大学まで片道2時間半通いアルバイトをしています。大学に入り、金銭面での劣りはアルバイトのお金で感じなくなりました。しかし深く人と関わることがわからないので仲の良いと思う人はいません。少したち告白され彼氏ができました。とても愛情表現をしてくれる人でした。とても新鮮で嬉しかったのを覚えています。5ヶ月ほど経つと最初の頃ほど好きという感情が無くなったと言われました。喧嘩して別れて戻りを続け1年経ち別れました。最後に付き合ってあげていたんだと言われたのがわたしはショックだったようでクラスでその人に会う度に辛くなります。最近は便利なものでTwitterなどSNSで情報が入ってきてしまい楽しそうなのを見るたび何でわたしはこんななんだろうと悲観的になり泣いてしまいます。そして今年の夏休み、去年も友達はいませんでしたがその人が相手をしてくれていたので1人ではないと勝手に思っていました。実際1人だったのかもしれません。しかし今年誰とも関わらずただアルバイトに行く生活。アルバイトは楽しくとても居心地の良い場所でした。しかし、新しく入ってきた社員とうまくいかずやめたいと考えるようになりました。そして今まで流せていたバイトの時に言われるデブ、ぶた、変な顔が流せなくなりました。本当に思っていないのはわかっていますでも1日に何十回も言われると辛くなります。そして将来職につけるのか、適応していけるのかという不安。何もかもうまくいかない、1人だと塞ぎ込んでしまい今に至ります。長々すみませんでした。
初代あかり(殿堂入り|ココオルスタッフ)
π- 2015-08-09 14:14
このあたりは、人間の群集心理として、悪いことだとわかっていても、他の人たちと同調し、より弱い人たちを攻撃してしまうというものがありますね。これは、学校のみならず、社会全体の問題でもあります。
>その後クラス替えがあり先生方が主犯の人達とクラスを離してくれたので短い期間で済みました。
環境によって状況が変化して良かったですね。このように、タイミングで幸運や不運なこともあるので、何とか時が過ぎるのを待つというのも一つの方法ではありますね。
>いじめられた時学校に行きたくないと母に相談しました。しかしあんたもいじめに加わった事があるならしかたないと言われました、最もだと思います。
お母さんに相談したものの、受け入れてもらえないばかりか、否定されてしまっては、本当にショックだったと思います。本来家族は助け合って生きていくものですので、正論を言ったり、自己責任というよりも、もう少し受け止めてくれればこじれずに済んだかもしれませんね。
>私の家は片親で貧しいので欲しいものの我慢はもちろん周りの子より持っているものも劣っていました。小学生中学生の頃はその事をとても気にしていました。
子どもの頃は、家の裕福さや貧乏な状況などで、子ども自身が劣等感を感じやすくなってしまうことがあります。その結果お母さんともうまくいかなくなってしまっていたのでしょうね。
>中学二年は友達を作る事が嫌になりクラスの控えめな男の子のグループに混ぜてもらっていました。なので男女別になる体育は悲しいものでした。
おっしゃるように、お母さんがお金のやりくりで大変で、疲れていたというのもあるでしょうね。子どもは親も環境も選ぶことはできません。家庭の経済環境によって、他の子どもが心配しなくてもいいようなことで、親と対峙しなければならないこともあり、ご自身の家庭環境は、そういう状況だったようですね。塾のことでもめたのは当たり前ではなく、ご自身の家庭環境で生じてしまったものだと考えて、それだけ困難な状態ではあったことは理解しておいてくださいね。
>夏休みの前大きな喧嘩をしました。それまでは言い返さず聞いていただけだったのですがティッシュの箱を投げられたあとぶたれそうになった時抵抗しました、
なるほど。自分のお年玉で食事代や交通費を出すなど、本当によく頑張っていたのですね。
経済問題や親御さんに生活に余裕がない時は、子どもとの関係も悪化することがあります。誰が悪いという問題ではなく、ご自身の家庭環境はそういう状況だったのだと思います。
>母は私と話さなかった2ヶ月の間父と会っていたようで父の悪口を聞かされいたのでそれも私はもやもやしていました。夏休みが終わりお弁当を作って学校に行き少し経った時母と話すようになりました。
このあたりになると、お母さん自身が明らかに子どもを育てる能力が足りなくなっているのだなと感じます。子どもにお金や食事の工面をせず、口も聞かないというのは、さすがに養育者としての責任を果たしておらず、大人として、親としての問題があると思います。たとえ仕事が忙しく、生活に余裕がなく、精神状態が悪化していたとはいえ、役所の生活相談などを活用し、何らかの社会福祉の支援を得ることもできたと思います。
もし何らかの支援をもらっていたとしても、保健所や児童相談所等に生活や子育てのことを相談するなど、いろいろと行動してもらえればよかったと感じます。
子どもの携帯を取り上げるというのは、子どもの人格を無視し、絶対にやってはいけないことなので、そういう強硬策を取ってしまうと、どんどん関係性は悪化するので、ちょっとなんらかの別の方法で問題解決を図っていければよかったなと思います。父親を呼ばれ、自分の元のいることを拒絶された時の心境は、本当にショックだったと思います。
ただ、その時のお母さんの状況はもうどうすることもできず、自分の精神状態をまともに保つことができない状況だったのだと思いますから許してあげてほしいと思います。
>父にいいイメージを持っていませんでしたが父が面倒を見てくれることになりました。家は母と二人、金銭面を父が見てくれるということです。母とは同じ家に住んでいるのにずっと口を利きませんでした。
お父さんは経済的な余裕は少なからずあったようですね。お父さんへのイメージは悪かったものの、結果として面倒を見てくれることで、印象も変わっていったのではないでしょうか。
お父さんなりに、お金やお弁当、食事など、いろいろと配慮をしてくださったので、すごくうれしい気持ちになったと思います。ただその一方で、お母さんとしては、自分の時とは異なり、すごく喜んでいて、安心した状態のご自身を見て、お父さんとの関係もあるので、いろいろと不満はたまっていたのかもしれませんね。
>11月また母と揉めました。私はもう自分がコントロールできなくなり警察に電話してしまいました。私は児童相談所に連れて行かれました。
警察に電話をしたのは良い行動だったと思います。世の中ではや親と子どもでの悲しい事件もたくさんあるので、どうしようもない時は警察に駆け込んで何も問題ありません。
その結果、児童相談所に行ったのですね。職員さんは、家庭内の問題等に対処する専門家ですので、優しさや厳しさなど色々な顔を持ち合わせていると思います。
虐待の可能性がある家庭への訪問をしようとすると、拒否されることは非常に多いです。この時もそういう状況だったようですね。親としては、自分が否定されたりすることがすごくショックで、攻撃的になってしまうことも少なくありません。
>受験が近かったので学校にも塾にも行かないで児童相談所にいる生活が怖くなり家に帰りたいと言いました。ただただ警察の方児童相談所の方に迷惑をかけ家に帰りました。その後は父との今まで通りの生活です。
この後悔は、難しいところがありますね。結果論としては後悔してしまいますが、警察に電話をして、児童相談所に引き取られるほど不満を抱えていたわけですから、無視するのも無理はなかったと思います。ご自身に問題があるというよりも、お母さんに養育する余裕がなかったことで生じている状態ですので、ご自身を責めないようにしてくださいね。
>びしょびしょになり案の定熱が出ました私立受験の合格は決まり公立受験の前日です。ふらふらしたまま受験しました。もちろん落ちました。
公立受験に落ちてしまったことは残念でしたね。ただ、うまくいかないことはありますし、責められてもどうすることもできませんね。やはりお母さんは、いろいろと心の余裕がない状態だったのかもしれませんね。
>母方の祖母から電話で泣きながら高校までは行こうと言われました。母は授業料の文句は言わないと約束してくれました。そして高校に行く事になりました。
持ち物などに対して、劣等感を感じてしまっていたのですね。家庭の裕福さだけが友達になる条件ではないので、いろいろな形でかかわっていき、仲良くできそうな人がいればよかったですが、少し運もなかったのかもしれませんね。
>6月母が救急車で運ばれました。胃に穴があいてしまったのです。母が死んでしまうのではないかと考えると涙がでました。それから1ヶ月学校に行きながら母の病院に荷物を届けに通いました。母は退院すると穏やかな人にまるで変わっていました。
やはりお母さんは、色々なストレスを抱えていたのかもしれませんね。入院期間中にゆっくりと過ごすことで、少し心境にも変化が出て、性格的にも穏やかになったのはご自身にとっても周りの人にとっても良い機会とはなったようですね。
>高2高3、母は弁当も作ってくれたしご飯も作ってくれました。そしてとても優しかった。わたしは学校に行ったり行かなかったりアルバイトばかりしていました。母は働いていたので学校に行かない私に学校に行くように言いました。
このころになると、お母さんは自分なりにできることをしっかりとやってくれていたようですね。ただ、ご自身としてはあまり学校にも行かず、適当なことばかりしてしまっていたのですね。
>大学は附属推薦を成績でもらえたのでそこに進学しました。大学の費用を稼ぐため母は一日中働いています。帰ってくるのは週に二回深夜に眠りに帰るだけです。
大学費用はお母さんが出してくれているのですね。掃除洗濯炊事はご自身がやっており、ある程度うまく分担しながら共同生活ができているように思います。それにしても、片道2時間半のバイトは大変ですね。
>大学に入り、金銭面での劣りはアルバイトのお金で感じなくなりました。しかし深く人と関わることがわからないので仲の良いと思う人はいません。
働くことにより収入が増え、いろいろと買えるものも増えるようになったのは良いことですね。ただ、コミュニケーションについてはまだうまくいっていないところもあるようですね。
>少したち告白され彼氏ができました。とても愛情表現をしてくれる人でした。とても新鮮で嬉しかったのを覚えています。5ヶ月ほど経つと最初の頃ほど好きという感情が無くなったと言われました。喧嘩して別れて戻りを続け1年経ち別れました。
大学で恋愛もして、いろいろと楽しい経験もあったものの、今回の恋愛は辛い最後にもなってしまったようですね。これからまた恋愛をしていくと思いますが、辛いことも楽しいこともあり、人間としても成長していきます。いまのその苦しみはずっと続くわけではありませんから、いずれ乗り越えていけるようにしましょう。
>最近は便利なものでTwitterなどSNSで情報が入ってきてしまい楽しそうなのを見るたび何でわたしはこんななんだろうと悲観的になり泣いてしまいます。
友人関係があまり活発ではなく、当時付き合っていた人が心の支えとなっていたところが大きかったのかもしれませんね。
>しかし今年誰とも関わらずただアルバイトに行く生活。アルバイトは楽しくとても居心地の良い場所でした。しかし、新しく入ってきた社員とうまくいかずやめたいと考えるようになりました。
今のアルバイトは、どのぐらい続けているのでしょうか。酷い言葉を言われると、嫌な気分になるのも無理はないと思います。これを機会に、何か別のバイトを探してもよいかもしれませんね。学生時代は、いろいろなところで働けますので、ぜひこれを機にいろんな仕事にチャレンジしても良いかと思います。
これまでの環境をかなりしっかりと乗り越えてきていると思います。あとは、信頼できる人、相談できる人が見つかると、また少しずつ元気を取り戻していけるはずです。ぜひ少しずつ一緒に考えていきましょうね(^^)