鬱なのか、精神不安症なのか正体不明のモヤモヤ。
自分は病んでいるのかどうなのか色々検索して調べていたら、宮島先生という方の動画にたどり着いた。何を持って鬱というのかはわからないけど、その先生の話はよくよく理解出来て完全に同意。
角度や捉え方を変え、自分は自分ということを受け入れるだけで世界の見え方は全然変わるということ、自分で苦しめている自分を解放しましょうというお話だった。
でもそのきっかけや、何から調整していいのかがわからない。
こうしている間にも時間は流れていく。

私は32歳独身女性。結婚を考えている男性と5年間同棲中。
仕事はファッション関係。
仕事がら、"不"や"負"な部分を人に見せることに何のメリットもないのでそういったことは基本表には出さない。
だから客観的には公私共にうまくいっている。
自営業の私は成功するもしないも、自分次第。目には見えない無数の期待を裏切れないというプレッシャー。
いつも幸せでいる様に見せないといけないプレッシャー。

いつの間にか、本当に心から楽しいと思えることが何なのか分からなくなってしまってる。心から偽りなく笑いたい。

頭と心の整理には時間がかかりそうなので、とりあえず宮島先生がおっしゃっていた様に毎日散歩をすることにした。今日はその1日目。

散歩中一人で色々回想してた。
子供の頃のこと、始めての登校拒否、2度目の登校拒否、何が私を突き動かしたのか。どうやって学校に行くことにしたのか。何に救われたのか。

確か最初の時は小1で、父に自分で変わらなくてはいけないという話をされた。自分の問題なのだと優しく諭された。登校拒否の原因も今思えば大したことではない。字を書くのがとても遅かったことをお友達にからかわれたのだ。子供は傷つきやすくもあり、残酷でもある。でも悪気もないのだ。すぐに学校へ行き出した。

2回目は中2の時。重症だった。隠して隠しても遂に様子が変と言われ最初母親に部活内でのイジメを告白した時は苦しさが溢れてきて大泣きしたけど、その後は無感情。今の状態にすごく似てると思う。
感情を封印というか、悲しいとか辛いとか不安とかを封印してる感じ。夏休みだったけど部活には行かなかった。
地元で毎年盛り上がっていた夏祭りに従兄弟のお兄ちゃんが誘ってくれた。その裏では大人達が(母が誘ってあげてと頼むなど)動いたと思うが、毎年楽しみにしてた夏祭り。行けるのかと思うと少し救われた。でも他の同級生はお友達とお祭りに行ってると思うと悲しかったし、どうか誰にも会いません様にと思っていた。
おばあちゃんも会いに来た。おばあちゃんは何も変わらず優しい穏やかな笑顔。何か特別な事を言われたわけではないけど手を握ってくれた。ずっと一緒という気持ちになった。母と弟ともののけ姫を映画館に見に行った。この時もお祭りの時と同じ様な気持ちになった。母は誰よりも私を心配していた。気分転換に絵を描く?と画材屋に私を連れて行って、画用紙と水彩色鉛筆を買ってくれた。その後はただひたすら無心に絵を描いていた。ある日一人で家にいると、玄関が突然開いて母が走って入って来た。泣いていた。私が死んでたらどうしようと思ったらしい。この時に、私が死んだら悲しむ人がいるんだなと思った。母をこれ以上心配させたくないと思って、新学期、意を決して学校に行った。ドキドキしながら学校へ行き始業式が終わったら走って帰った。怖くて辛くて走って帰った。その後は学校社会で怖がらずに生きていく術として部活を辞め、タバコや夜家を抜け出し酒を飲む、いわゆる不良になった。そして怖いものはなくなった。恨みや怒りもなくなった。

真面目で勉強ができる良い子だった私から正反対の不良で勉強もしない悪い子に一変した。

母は複雑だっただろう。その一件があるまでは、絵に描いたような良い子だった訳だから。
母を心配させまいと学校に行く為に、これがその時できる精一杯だったが、逆に親に心配をかけることになってしまった。高2まではそんな調子で正そうとする母親には反抗しかしていなかった。ある日見かねた父が母を大事にしなさいと言って来た。父方のおばあちゃんは実は父の3番目のお母さんであることにを聞かされた。本当のお母さんは父が6歳の時に亡くなったと。母が元気で近くに居てくれることに感謝しなさいと言われた。
その後私はどうすれば母を安心させることができるか考えた。そして母には怒らない条件と引き換えに全てをさらけ出した。どんなところでどんな人たちとどんな遊びをしているか。年頃の子が普通親には隠したがることも全て。それを期に親子関係も良くなっていった。ただ近くなりすぎてしまって、お友達の様なった母にはもう甘えることはできなくなってしまった。そして母は父の悪グチを言う様になっていった。

18で両親の反対を押し切って上京し、ファッションの仕事を始めた。最初の頃は慣れないハードワークに心身共に疲れて体調を壊し休んだこともある。その事も母親には言えず、電話で元気だよ、今日も仕事疲れた〜と嘘をついた。

21歳の頃仕事に行き詰まりロンドンへ行こうとおもった。仕事を辞めたいと思った訳ではなく、もっと成長したかったからだ。もっともっと出来る自分になりたかった。とはいえ仕事で挫折感を味わっていた訳で、辞めてからの空虚感は本当に辛かった。
その頃父と母の仲は最悪な状態。母はノイローゼ気味になっていた。
親戚からいきなり電話がかかってきては、あんたがどうにかしなさいと言われた。

私には兄と弟がいるが、当時兄はまだ大学生で、社会人のあんたが何とかしろという事だった様だ。
とはいえ私も辛い状態。母にはもう無理に一緒にいなくて良いよ。弟さえ納得するなら私や兄はもう大人だから。自分の幸せを一番に考えてと伝え、逃げる様にロンドンへ行った。

子供の頃の兄はとても神経質で落ちた食べ物は絶対食べなかった。真面目で頑張り屋でシャイ。
兄は小学校5、6年の時ほとんど学校へ行かなかった。友達も沢山いる野球少年が突然引きこもった。家庭科の時間に縫い針を落として、探しても見つからなかった事から、自分に刺さったのかもしれないと思い込み、血管を通って心臓に至り、いつか死ぬと思い込んだと母から聞いた覚えがある。通常の精神状態でそこまで追い詰められるだろうか。

父は兄に厳しかった。
兄は毎日父にその日にやった宿題以外の勉強を報告しなければいけなかった。今思えば、お兄ちゃんなんだからと言われ続けた重圧は耐え難いものだったのではないか。

厳しい家だった。8時以降はテレビを見てはいけなかった。9時には寝なきゃいけなかった。中学の時の門限は5時。
夕飯は父が帰ってくるまで待たなくてはいけなかった。
大人になってから母が言った言葉。子供達を預かってる様な気持ちだったと。大事な大事な預かりものに傷をつけてはいけないと思って子育てをしていたと。

3歳くらいの頃母親が胃潰瘍と顔面麻痺になった事がある。ストレスからだったそうだ。子育てがプレッシャーになっていたのかもしれないと今考えると思う。

両親を愛している。大事に育ててくれたと思ってる。楽しい思い出いっぱいあるはず。でも思い出されるのって辛いこととかショックな事とかばっかりなのはなんでだろう。

そしてこれらの経験は今の自分に影響を与えているのかな。

やらなければいけない事は沢山あるのに、今は不安感や焦り、無気力でどうしようもない。仕事が手につかなくて本当に困ってます。

どうしようもなくてデバス飲んでます。