死にたくなる出来事。
今日、また死にたくなる出来事がありました。そんなことぐらいで?と、周りの人は思うでしょう。私にとってはそのくらいのことなのです。私は自分を〝生きるのに向いてない〟と思っています。人には何でも向き不向きがあるのです。

日常の些細なことでひどく傷つき自分を責め、世の中を恨むのです。
この世の中は不条理でできています。真面目で真っ当に行きている人が損をし、法律を犯し自由勝手に生きている人が楽しく暮らせるのです。
私は毎朝車で通勤しています。通勤途中に信号機のない横断歩道があり、近くに学校がある為そこの生徒がよく横断します。私は横断しようとしている人がいれば必ず手前で停車します。それが交通法規だからです。親切心からではありません。しかし対向車は一台も止まらず私の後ろは大渋滞が起きます。交通法違反です。交通量の多い道です。そのうち後ろから数台によるクラクションの嵐。横断者は渡れず困り果て私は動けず対向車は止まらない。それが毎朝繰り返されます。その横断歩道が近ずくと動悸がしてきます。いえ、それ以外の道でもです。どれだけ道を変えてもそれは起こります。
私は自分の生きやすいように工夫して生きています。生きづらく関わりたくない場所には行かず、やりたくないことはやりません。社会人になってその自由度は増えました。子供のころは行きたくない学校に行かされ受けたくない授業を無理やり受けさせられていましたから。
しかし、それでもこの世の中が不条理でまかり通っている限りこの世の中に私の居場所はありません。性悪説とまでは言い過ぎです。〝人間だから〟と言った方がしっくりきます。つまり人間とはそういうものなのです。理解しています。受け止めています。だからこそ私はこの世に生きていたくないという結論に達しました。
ここからが今日の出来事です。
私は自分の着たくない服は着たくないのです。社会人になってそれが自由になると思っていました。外に出る時に服を着ないと公然わいせつ罪で捕まるのも正直めんどくさいですが従っています。
仕事は制服の有無を基準に選んできました。場所や給料より服装で仕事を選ぶのです。
しかし、今日祖父の法事があり参加することになったのですが、母に黒いストッキングを履くように言われ反発すると喧嘩になってしまいました。服は黒いスーツでストッキングを着用していました。
母は、「そういうものだから」と。
人の生死になぜ宗教が絡んでくるのでしょう。信仰の自由は当然です。故人を偲ぶのに服装は関係あるのでしょうか。というか祖父は仏教徒だったのでしょうか。生前聞いたことがありません。生きている人間が勝手に仏式にしたのでは。母と喧嘩別れした後、法事の服装についてネットで調べました。すると、通夜だと急なことなので肌色のストッキングでよい、逆にしっかりした服だと用意していたのかと思われるため良くないだとか。正直反吐が出ました。そんなこと気にしているのは日本人くらいではないでしょうか。大切な人が死んで悲しむのに服が大事だと。私としては死んで1時間経ってようが1日経ってようが死んでるもんは死んでます。変わりはありません。死んだ人間の為に服を気にしながら駆けつける意味がわかりません。中学生の時に実の父が亡くなった時もなんとも思いませんでした。それ以来思い出すこともありません。死んでますから。私は自分が死んだら式もいらないし骨はその辺に捨ててと両親に言っています。しかし軽くあしらわれています。本気で取り合ってもらえません。おそらく私が死んだら勝手に仏式にされるでしょう。でもまぁ構いません。葬式は生きている人たちのものですから。
まとめです。
故人を偲ぶのに服装は関係ない着たくもない服を着て嫌々大切だった人の式に出るなんておかしい。死んだ人のためとか言いながらただ生きている人の偏見と見栄。
私の場合、もし、仏式の規律書があり、そこに法事の際女は黒のストッキングを着用する。と書いてあれば私はそれに従うでしょう。そこにデニール数や服のメーカーまで指定していてくれればいいのですが。仏教ができた時代にストッキングはあったのでしょうか。私は宗教を否定しませんし、人の信仰心を否定しません。故人が仏教徒で仏式の規律書に規定があればそれに従って偲びます。
ただそれ以外の〝人間らしさ〟が出ているのが非常に歯がゆいのです。
罰せられる法律は守らないのに親族が集まる式で周りに嫌な目で見られたくないという。
私は人間ではないのでしょいか。
私に信仰心がないからなのでしょうか。
宗教とは1番〝人間らしい〟一面ですから。