学歴コンプレックスその他、マイナスな感情が噴き出して辛いです。
こんにちは。ダーウィン結節です。非常に読みづらくなると思いますが、気持ちを吐き出させてください。
事の発端はSNSのおすすめユーザーに、かなり嫌いな同級生2人が出てきたことです。端末に残っていたアドレスか何かで紐付けられたのでしょう。これについては後述します。
私は中学時代、壮絶なものではありませんがいじめを受けていました。おすすめに表示されたのとはまた別の人達です。生まれつき脚が不自由で、不格好な歩き方になるのを、悪意に満ちた笑みを浮かべながら真似してきたり、聞こえよがしに悪口を言ってきたり、私がいる時に机を離したりするなどです。両親に相談すると、脚のことについては私以上に怒っていました。学校の先生に報告してくれて、2年以降は彼らとクラスが離れるように学校が動いてくれたそうです。なお、いじめてきた人達は、先生の前では泣いて反省の弁を並べていたそうですが、すぐに同じことが繰り返されました。
両親に相談した際、「(難しい言葉を使って)偉そう」という悪口に関しては、私が周りに合わせることもできるだろうと言われました(その言葉は「概要」だったので納得がいきませんでしたが)。併せて、
「頭の良い子が集まる高校に行けば、そんなくだらないことをする奴は居なくなるし、周りはあなたと同じオタクばかりだから楽しい。だから、勉強だけは頑張れ。彼奴らが絶対届かない高校に行くんだ。」
との助言もありました。幸い勉強は嫌いではなかったので、特に苦にもならず、無事に第一志望の高校に合格しました。気の合う友人ができたり、初恋を経験したり、私の青春はここに用意されていたのだと思うような高校生活でした。両親の言った通りでした。
住んでいた県では上位の高校だったので、私などより勉強ができる人ばかりでした。サボっている訳ではないのに、見たこともないような点数ばかり出てしまうというのが初めてで、次第に勉強に身が入らなくなりました。進学先は、同じような職業を志す人でもないと知らない大学です。高校時代はたとえ成績が悪くても高校の名前がありましたが、今はそうもいきません。勿論、折角行かせてもらったので、せめてストレートで卒業できるよう残り数ヶ月、全力を尽くします。書くまでもないかもしれませんが、念のため。
中学で私をいじめてきた人達は、全員私より成績が低かったです。そのため、私の中で、成績の低さは憎き彼らの象徴でした。勉強ができない者となった今、私と彼らを厳然と隔てていた要素を失いました。みすみす捨てたというのが正しい言い方でしょうが。
亡父は私に、
「勉強はできて当たり前。その上で、何をなすかが重要だよ。」
と言いました。この教えは何の引っ掛かりもなく私の中に入ってきました。今の私は、当たり前のことすらできていません。ずっと、どこか生きる資格を失ったような気分です。
勿論、いつも暗い気持ちでいる訳でもありません。元々クイズ番組が好きで、大学進学後には実際に早押しクイズのアプリをプレイするようにもなりました。順調にランクが上がったり、クイズに触れなければ一生知り得なかったであろう事物と出会ったりして、クイズをやっている時は高校入学時に匹敵する高揚感を味わえています。しかし、不意に、もしクイズが強くなったとしても、私はただのクイズが好きな馬鹿なのだという現実を思い出して沈鬱な気分になります。クイズがきっかけで何組かYouTuberの動画を見るようになりましたが、高校で扱ったことは覚えているものの、詳細の説明まではできないという内容がよく出てきます。もし高校の内容が頭に入っていれば、演者の小ネタに、注釈がなくとも笑い転げていたでしょう。解説を見ずして、どんな原理を利用してその面白いことをしているか分かったでしょう。今より更に楽しかったはずです。いつか見かけた、「頭を使わなくても楽しめるコンテンツの作り手は、すごく頭を使っている。」というフレーズを思い出して、少し苦しくなりました。この世界は、私の解像度をこえた笑いで溢れています。腐らずに勉強しておけば良かったと後悔しています。
さて、はじめの方に書いた同級生2人についてです。二人とも私を雑に扱ってきました。仮に親しさの表れだとしても、こちらとしてはただ不快なだけの扱いでした。また、共通して、自分の勉強の出来に自信があるようでしたが、正直点数が伴っていると思えませんでした(わざわざ言ってきていた)。うち1人のアカウントのプロフィール欄には初歩的な文法ミスをした英文が書いてありました。私が勉強の出来について(自分が蒔いた種だが)嘆いている中で、もっと暗澹たる気分でいてもおかしくないはずの人達、というよりそうであってほしいと私が思っている人達は、人と関わるのが怖くなった私のことなど忘れて幸せに生きているのだと思うと、名状しがたいマイナスな感情に押し潰されそうです。中学の内容の習熟度が今一つな人についてあれこれ言っている自分も嫌です。本来できて当たり前のこともできない私が彼らについて言ったところで五十歩百歩でしょう。それでも、彼らよりは優れていると信じたいと思ってしまいます。駄目です。
自分の所為であり、こんなことを書いている自分が嫌ですが、書かなくては湧き出た感情に飲み込まれそうです。ただ受け止めてほしいです。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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かおり
π- 2020-08-29 00:12
非常にご聡明なお方と言う印象を受けました。
私は以前、丸9年程家庭教師をしていましたが(中学受験の小学生から大学受験の浪人生までを対象としていました)、その経験からは、勉強(学力)は技術であると言えると感じています。
今は昔と違い、カリキュラムも大きく変わっているようですので(家庭教師も20年程前に辞めて、その後は医療業界と最近では福祉業界でも勤務していますので、教育業界からは遠ざかっています)、以前の常識が現在も通用するのかどうかはわかりませんが、少なくとも以前の「学力」は「技術」であると感じていました。
もちろん能力差や個人差、向き不向きもありますので、技術と言ってもその習得方法は千差万別でしたが、その人に合ったやり方をすれば、成績はある程度までは伸びると思います。
もちろん、勉強はできるに越した事はないと思いますが、一つの技術だと思いますので、スポーツ等と同様に向き不向き、関心が有るか無いか等の影響も大きく受けるのではないかと思います。
勉強に関心が有ったり、研究職に向いていたり適している人も居れば、スポーツの能力に長けていて、向いている人も居れば、芸術方面の才能と関心が有る人も居ますよね。
また、人をサポートしたり助ける事に才能や関心が有る人も居れば、起業したり何か新しい物や事を作り出す事に才能や興味が有る人も居れば、人や物をマネージする事に関心もあって長けている人も居る…と言うように様々だと思います。
おそらく主さんのお父様は高学歴な方なのかもしれませんね。
高学歴の方は、確かに「勉強はできて当たり前」と仰るかもしれません。
ただ、世の中、学力以外の才能が活躍する場もありますし、学力は、技術である程度までは補えるように私は思います。
また中学時代、いじめを受けられていたとの事ですが、お辛い思いをされましたね。
主さんが少しでも楽なお気持ちになれますようにご提案ですが、いじめた相手の人達を赦してみて下さい。
相手の為に許すのではなく、主さんご自身の為に許してみて下さい。
自分を苦しめた相手を許すなんて、普通なら考え難い事かもしれませんし、許し始めの時は一時的にとてもお辛い気持ちになるかもしれませんが、その辛さを乗り越えると、その後は少しずつお気持ちが楽になっていくのではないかと思います。
もしご興味と余裕がありましたら、お試し下さい。
ダーウィン結節
π- 2020-08-29 15:18
「赦す」について調べて、「赦せない状態は、木のとげが指に刺さったまま痛みが残るようなことである」という文言に出会いました。まさしく今の私だと思いました。気持ちは一先ず吐き出させていただいたので、相手の気持ちになってみる、というステップに取り組んでみました。とかく私を悪く思っていて、私に嫌な思いをさせたかったのだろう、嫌いなだけなら距離を取るという選択肢もある中でわざわざ種々の嫌がらせをしてきたのは、彼らにとっては私に害が及ぶことがミソだったからなのかな、と思いました。分析する私の横で、感情的なもう一人の私が
「奴等の事情なんぞ知ったこっちゃない、私は被害者だ。」
と反論してきたので、今はこれが限界でした。でも、ここまで言語化できたことで、はじめに相談させて頂いた時よりは気持ちがすっきりしました。
嫌いな同級生2人に関しては、大学の同期の勧めで、勇気を出して繋がっていた連絡手段の一切を絶ったのもあり、された扱い自体に腹が立つことは少なくなっています。どちらかというと、勉強ができない自分よりも更に勉強ができない、当たり前のことができていないのに楽しそうに生きているのが許せない、勉強ができないことに絶望していてほしい、という気持ちです。本人達を赦すというより、勉強ができない自分を赦す、どうにかして折り合いをつけるというのが課題だと思います。
ところで、LoveJesusChristさんの仰る通り、父は高学歴の部類に入ります。因みに、母は地元の進学校→(母曰く)私立のバカ大という経過です。母も学歴にはコンプレックスがあると言います。両者ともに勉強は重要だという考えです。また、私が勉強はできた方が良い、勉強は楽しいものだという考えに至るような教育をしてくれた両親に感謝しています。過激な言い方になりますが、「勉強なんか将来役に立たない。」という洗脳をされなくて良かったです。勉強ができないと、勉強が役に立つことを実感できない狭い世界に閉じ込められ、あまつさえそれに気づきもしないのだと思います。
「以前の常識が現在も通用するのかどうかはわかりませんが、少なくとも以前の「学力」は「技術」であると感じていました。
もちろん能力差や個人差、向き不向きもありますので、技術と言ってもその習得方法は千差万別でしたが、その人に合ったやり方をすれば、成績はある程度までは伸びると思います。
もちろん、勉強はできるに越した事はないと思いますが、一つの技術だと思いますので、スポーツ等と同様に向き不向き、関心が有るか無いか等の影響も大きく受けるのではないかと思います。
勉強に関心が有ったり、研究職に向いていたり適している人も居れば、スポーツの能力に長けていて、向いている人も居れば、芸術方面の才能と関心が有る人も居ますよね。
また、人をサポートしたり助ける事に才能や関心が有る人も居れば、起業したり何か新しい物や事を作り出す事に才能や興味が有る人も居れば、人や物をマネージする事に関心もあって長けている人も居る…と言うように様々だと思います。」
という部分を読ませて頂いて、どうも私は勉強について、自分が思う以上に強い強迫観念があったかもしれないと思いました。勉強に向き不向きがあるという発想がありませんでした。だから勉強ができない自分も、他人も赦せなかったのかもしれません。
高校の勉強に未練があり、教科書類はほとんどとってあります。たまに読み返しています。
お返事を頂いて、自分の課題が少し明瞭になりました。道のりは長そうですが、自分やいじめた相手を赦せるよう頑張ってみます。
とても長くなってしまいましたが、本当にありがとうございます。最後まで読んでくださってありがとうございました。
かおり
π- 2020-08-29 16:27
そうなのですよね…
私は自分自身がクリスチャンである事から「赦す」と言う言葉を概念としては知っていましたが、いざ実践となると、自分自身の感情が邪魔をする…と言う事を数え切れない位、体験してきました。
しかしごく最近、ふと気が付いたのですが、誰かを恨んだり、誰かに対して赦さないで怒っていると、自分自身の身体もギュッと力が入って、縮こまるような感覚がありますよね。でも逆に、感情的には一時的に辛いけれども、それをおして赦してしまえば、その後はだんだん全身に入っていた力が緩んできて、ギュッと縮こまっていた自分自身の身体が、緩く伸びやかになる感覚がある事に気付きました。
クリスチャンとしての見解は、ああ、これが「相手の罪を赦しなさい。そうすれば父なる神も、あなたを赦すであろう」と言う事なんだな…相手を赦さないでいると、自分自身も赦されずに、常に体も心も固くなっているけれど、相手を赦してしまえば、自分自身も楽になれるんだな、赦すのは、憎い相手の為ではなく、自分自身の為なんだな…と思いました。
話が反れましたが、確かに感情的には一時的に辛いのですが、その辛さを乗り越えた先には、少なくとも、その憎しみや辛さから開放された世界があります(でも人間なので、また新な別の負の感情が常に起こるので、またその処理に対策や時間が必要ですけれどね)。
それとこれも私見ですが「勉強なんか将来役に立たない」と言う人程、きちんと勉強をした事が無い印象があります。
ある程度きちんと勉強をしてきている人は、その価値を体験しているので、そのような事を口にする事は少ないのではないかと思います。
そのような事を言う人は、勉強の価値を体験していず、勉強の価値を知らない人達が、あたかも知っているかのように捨て台詞的に言う言葉なのかな…と言う印象があります。
学力は技術なので、身に付けると使える事が多いように思います。
もちろん、使っていないと、年と共に忘れていく部分も多いですけれどね。
焦らずにゆっくりと、少しずつ、ご自身を取り戻されて行って下さい。