私の母親は小学4年生の時に事故で亡くなった
その時の事はよく覚えています
朝は母と妹とシリアルを食べて妹と幼なじみと一緒に登校しました
11時頃4限目になる前の休み時間だったと思います いきなり放送で私と妹の名前が呼ばれランドセルを持って校長室に来るようにとその時は自分達だけ呼ばれている、同級生の注目の的という状況にニコニコしていました
同級生とどうしようどうしようと言っていると先生が呼びに来てランドセルを持たされ妹と校長室へ連れて行かれました
そこにはおばさんとおじさんがいてあぁただ事ではないのかもと幼心に思いました
朝来た通学路を車で帰り家の前に着くと親戚がたくさんいて悲しそうで妹の手を握ても不安で不安で仕方なった
家に上がると父が抱き着いてきて母が死んだと聞かされたもういないんだと言っている薄々そんな気がしてあぁやっぱりそうだったんだ
でも泣かないお姉ちゃんだから妹が泣いているから慰めないと父が泣いている皆が泣いている泣いちゃダメそれでも少し泣いてしまった
父が母に会おうと言って奥の部屋に連れて行かれた白い布団に寝ている母は眼帯をして手は包帯をしていた
その時はなんで眼帯だろうと思ったけどその夜あぁ眼鏡が割れて目に刺さって傷を隠せないからかと理解した
ほんとに寝ているようででも触ったら冷たくてびっくりして手を握てあげてと言われておばあちゃんの手を重ねられたけどすごく嫌だった
それ以来何人も親戚や知り合いが亡くなってお葬式に出たけど遺体を触るのには抵抗がある
その後親戚が一旦帰って行ったおばあちゃん達が残って色々していたけど部屋にいるように言われて妹と従姉妹が泣くのを慰めて過ごした
寝る時になっておばあちゃんが部屋に入ってきてお母さんの髪をくくるゴムを渡してくてた亡くなった時も手首に着けていたらしい
それを握り締めて始めて泣いたもう会えないと実感できたでも泣いたのはその時だけで泣いたら心配をかけるからと泣けなかった
お葬式に行く時幼なじみから手紙を貰った幼なじみが泣きそうになっていて大丈夫だよとしか言えなかった
お葬式には私の同級生が数人と引率の担任が来ていて何も思わなかった
焼き場に行く途中来ていた同級生がいて羨ましかった
しっかりしろ私がしっかりしないと妹が泣いてるしっかりしろと念じていたお葬式の間にも泣きそうになった時も羨ましいと思った後も1人で寝る時もずっと念じていた
次の日父がご飯を作ってくれた
そんなことしたこともないだろうに作ったのはチャーハンで失敗して諦めてコンビニのおにぎりを食べたような気がする
やっぱり私がしっかりしないとダメなんだと思えたこれから母の代わりになるだと
でもその数日後に父方のおばあちゃんが来てくれるようになった
家を空けられないからと週の半分はおばあちゃんで半分はおじいちゃんがくるようになった
それから半年と経たずに父は帰ってこなくなった
元々家にいる人じゃなかったけど捨てられたかなと思った
父と母の記憶に残っているのは私が2人の喧嘩に割って入ったことです
殴られている間に入ってお母さんを泣かせるなと怒鳴った私のことは殴れなかったのか近くのファンヒーターを殴って出ていった怖くて泣けてしまってお母さんと2人でわんわん泣いた妹はまだ赤ちゃんだったと思うそれが一番強烈な記憶です
帰ってこなくなったと行ってもひと月に1度くらいは帰ってきたかな?もっと少ないかもほとんど居なかったから記憶が曖昧です
その後いきなり帰ってきて旅行に行こうと言い出して車で愛媛に連れて行かれた
着いた先は畑ばかりの道を抜けた平屋の一軒家で女の人と同い年くらいの女の子が出てきてこれから一緒に旅行すると自己紹介された
でもその日どこに行ったか記憶にない父の彼女とその連れ子を紹介されてお母さんのことで頭がいっぱいだったからだと思う 泣くなと自分に言い聞かせていた事は覚えている
また父はほとんど帰ってこなくてたまに帰って友達との付き合いや彼女と連れ子と遊びに連れて行くようになった
その中で女の人もいてその人とその人の子供と別の日5人で県外に遊びに行った
その帰り道彼女にこのことは内緒にしてと父に言われて彼女には言わなかった
彼女が仕事の都合でこっちに住むことになった
近くのマンションを借りることになって彼女とその子供と住むんだとその子供と一緒の学校でクラスは別だった
それからたまに家に来るようになってだんだんおじいちゃんの代わりにその人が家に来て子守りをするようになった
おばあちゃんが来る日は父と彼女と子供がマンションに帰る
おばあちゃんが帰ると3人が家に来るその繰り返しになった
帰ってこなくなってから色々諦めたように思う
彼女と会わせられて失望したのかもしれないもうあの頃の記憶が全然ない
父は気づいたら無職になっていて帰るとずっと奥の部屋でテレビを見たりぐうたらしていた
私達の生活費や学費その他諸々はは母の遺族年金とおばあちゃん達のお金から捻出していた
父親を放棄したのにたまに父親面をする自分は父親のつもりなんだろうけど私の中では帰ってこなくなってから彼女と会わせられてから無職だと気づいてから父親だと思ってない
でも世間一般的にはまだ父親だったんだろう
テレビでネグレクトという言葉を聞くことがあったおばあちゃんは私達は育児放棄されたのだと言っていた父親はどうするつもりなんだろうとも全部おばあちゃん達に任せきりにしてたんだろう
働いてないと知ってからどうするつもりなんだろうと言うことが増えたのは覚えている
私達は育児放棄されたんでしょうか?
ネグレクトで検索をかけても私達は病院に行けたし学校にも行けたご飯も毎日食べられたしお風呂も毎日入れた髪が伸びたと思ったら美容院に行けたアレがないコレがないと困ったこともなかった
もっともっと酷い環境の子供がいるけど父親からの愛情は欠片も感じなかったでも不自由はなかった
とてもちぐはぐでこれが何だったのか私は未だに答えを得ない
あれはネグレクトだったのか育児放棄だったのかそれともなんでもないたくさんある変わった家庭の1つだったのか
あの頃を思い出すとお母さんが亡くなったことに話がかえるその度に泣けてしまうあの時泣かなかった分なのかお母さんを想うと泣いてしまう
私は結婚して子供が産まれた
父と同じことをしそうでまだ欲しくなったけどできてしまったので殺したくはなく産んだ
彼とも親友の延長線のような感情で愛してもないでも情はあるといった感じ
子供は可愛い最初はなんとも思わなくて不安だっけど育てていくと可愛い
でもそれは犬猫に対するものとそう変わらない気がする
邪魔だなと思うことも多いでも父と一緒になりたくないから放置はしない
可愛いと思っても常に心は凪いでいるかもしれない自分以外の他人へのパフォーマンスが大いにある自分は子供を可愛いと思っている大事にしている大切だ
本当に思うけどでもやっぱりパフォーマンスの割合が多いなと凪いでいる自分が思う
世間一般的に子供を施設に預けてもなんの問題ない普通のことだとそういう一般常識ならもしかしたら手放しているかな いやでも寂しいな可哀想だよなと考えるけどこれも答えを得ない
こんな所に生まれてきて可哀想とも思うしそんなことを思うのがこの子にとってそれが一番可哀想なんだとも思っている
これから愛情を持って育てられるのか父親みたいなことはしないと言いきれるのかお手本がないのにそれらしいことができるか私はなにをしたらいいのか答えもみつからないまま産んでしまってごめんねと寝顔を見ながら思うけどそれでもどこかででも不意に邪魔だと他人に出来ていると思わせるパフォーマンスに付き合わせるのかと思ってしまう
一生懸命はいはいして私を追いかけたり私が抱いてないと寝れなかったり私を見ると満面の笑みを向けてくれるのを見ると愛おしいと思う
けどやっぱり不安だ愛おしいと思うのに心のどこかが静かなのは普通なんだろうか
なにが普通で何かが普通じゃないのか
母が死んででどこかおかしくなっているのか
あれがネグレクト育児放棄でどこかおかしくなってしまったのか
それともこんなの普通で皆がこうなのか
あれが何だったのかが分かったら分かるんだろうか
ここで答えがでるのか分からないけど人生で始めて人に話す掻い摘んでは話しても全てを私の気持ちも話すのは始めてでここであっているのかも分からないけど少しでも理解できたら少しはあの子にましな人生をおくらせてあげられるなら答えがほしい
でもこれを書いて泣いて寝顔見てると少し楽になった気もする