4歳の時、私の母親はエホバの証人という宗教に身を託していました。私自身が何故母親が宗教に存在を託したかも理解はしていました。
私の家庭は父親の暴力に支配され逃げるかのように同時期に離婚をしています。
私の母親はお金に執着心のかなり強い母親でした。
宗教の教えの観点という理由で学校へのイベントやクリスマス、誕生日を祝うことは不可能でした。
母親のお父さん〘私から見ると祖父〙はかなり威厳のある人で母親が宗教に入ることを根本から嫌悪していましたが、反面財政的な援助はしっかりと話ししていました。
私自身の記憶にある中で、私が学校での成績が悪くなるとムチで身体を叩く、勉強を強いられる中で母親が満足出来る箇所の課題が終わるまでは食事は勿論、睡眠をとることも許してはもらえませんが流石に2日近く安めないままでいるとウトウトしてきます。その際に必ず目が覚めるまで身体が腫れ上がり肌の色が紫色になるまでムチで叩かれました。
宗教の教えに歯向かえばムチ、母親の望まないことがあればムチ、学校での何かがあればムチ、成績が悪ければムチ、善悪の理解が出来るようになろうにもまず母親がどのタイミングでムチを振りますのかを自身で日々一つ一つが試練でした。
私には3歳違いの妹がいましたが、母親は妹に対しては女の子であるからムチはしないとの言い分で罰はないとのこと、女の子だから可愛い服を、美味しい料理を宗教の教えでもお付き合いであれば誕生日やクリスマスはOK。
元日であればお年玉をもらえる時にも女の子だから好きな物は自由にしなければならないとのことをまだ理解不能な時期にそれが宗教の教えだから従いなさい。〘カルトと言われている宗教で私自身も成人になってから教団に問い合わた結果あり得ないとの返答でした〙
私が13歳になるまで続いた家庭でした。
春休みや夏休み、冬休みや土日は学校がないとの理由で母親が働く所で朝の3時に起きて6時までお手伝い、午後も3時から5時まで手伝いもあり、私も流石に学校生活を送るために必要になるものがあるため手伝いをしなければますます悪循環に陥ることは子ども心に理解はしていましたので一日100円と昼に食べ物とする学校での給食費を支払うことを条件に一年に一度誓約書を書かされていました。

私が13歳の7月7日に児童自立支援施設へ引き渡されるまで続き、やはり私はそこでも泣き寝入りの人生を見ることになりました。
中学校卒業するまでは経済的の負担が厳しいとの理由で入所手続き、勿論引き受けを拒否するのも早々と、条件が二つしかなく1万円で中学校での生活に関わる全てを自分でやりくりをするのか施設に入所するのかの選択肢。〘学費は市の福祉制度で母子家庭のため学費は免除され必要な金額の援助金もありましたが当時は知る余地もありません〙

14歳の時に施設でのイジメに耐えかねて脱走をしたことにより少年院への送致、4年8ヶ月間収容されましたが理由は引受人がいないとの理由。

母親も祖父も拒否していました。
18歳で仮出院が出来た理由が慰問に来ていた宗教法人。
宗教法人の紹介で依存症断絶プログラム施設に入所との形で仮出院したものの薬物療法を受け続けた突然の断薬によるフラッシュバックで病院へ入院、社会での生活が困難との保護観察所からの判断、宗教施設はフラッシュバックを起こすほどの症状とは聞かされてなかったとの意見書も添えて再入院20歳の満期で近くの精神科病院へ入院、そこから薬物治療をするものの担当医が変わるたびに治療方針の変更に伴い薬を断絶や大量投与の行ったり来たりを31年間の現在に至ります。

【ざっくばらんで申し訳ありません。詳細な点が必要な箇所がある際にはお知らせください】


私自身がその過程で、社会との繋がりや人との距離感、自身を否定し続けて信頼関係が保てなく、人は必ず裏切り必ず嘘をつくとのステーサスで常に臨戦態勢、安心場所を設けようにも見つけてはやめさせられての不定感、過去のことを思い出す度に吐き気や腹痛、頭痛や目眩、時にいきなり襲いかかる罪悪感や恐怖感、憎しみや葛藤による不安。
周囲との疎外感を感じながらも信じては駄目と思いながらも自分自身も信じられない不安定感。

が、今私がどんなに対処しようと賢明に努力しようにも乗り越えられない葛藤?に悩むことです。

少し文章としても表現としてもおかしく思われるかもしれませんが、ありのままに起きたことを言葉での表し方が一番文章に記しやすかったのでご理解頂ければ幸いです。