今、治療の傍らアルバイトをしている最中ですが、大きく傷ついた心を治す毎日が続いています。

そこで、少し視点を変えた相談を投稿したいと思います。
経緯が長くなるほか、過去の投稿と重複する部分はご了承願います。

自作のイラストでお世話になった人達への恩返しや家族への救済、これまで不名誉な自分自身の名誉挽回をしたかった。
それが、不器用な私にとって精一杯の事だった。

幼少期からも趣味として、絵は描いていた。また、小・中学校時代には漫画も描いていた。

中2の秋、私はあるゲーム雑誌のイラストに感銘を受けた。当時描いていた画風とは大きく異なるが、「描いてみたい」と思った。

中3の夏、私は受験生の頃、中2の時出会った画風の自作のキャラクターを描き始めた。名前は「LoveNetwork」。
当時受験生だった事もあり、なかなか描く時間はなかった。また、当初は単なる「暇つぶし」で画材も色鉛筆、いわゆる「自慰行為」の道具でもあった。当然、他人に見せる事はなかった。そんな状態が5年続いた。

描き始めて5年経過した頃、大学2回の時にあった母校の高校の同窓会にて。自作のキャラクター達が初めて日の目を見た。これは当時のアルバイト先の店長の「打ち明ける」事に対する後押しもあったけど。

それ以来、画材も当面水彩に変え、大学でもゼミ仲間等の前で披露する等、キャラクター達は少しずつ露出を上げていく。

大学卒業後、新卒で入った会社及びつなぎのアルバイトを経て、幾度か話をしたIT会社に入った。そこで幾度か話している同期のY君に出会った。入社して1年半ぐらい経った頃、Y君からmixiを教えてもらった。

mixiを通じて、小・中学校の友人たちと連絡が取れるようになった他、徐々に再会も果たした。そこで、友人たちの頑張りを知る事にもなった。以後、彼らにも私のキャラクター達が伝わる事にもなった。もちろん、この会社の方々も私のキャラクター達を理解してくれており、有志でファンクラブを立ち上げているほどである。

このIT会社では、上司からグラフィックソフトの存在も教えてもらった。本来の会社の業務とは少し離れるけど、PCで絵を描く技術を身につける事ができた。以来私はPCで絵を描くようになった。

また、Y君の結婚式にも参加した。そこで、「自分も彼に恩返しがしたい」と思うようになったのと共に、イラストへの意識も変わった。

不本意ながらも当時のリーマンショックの影響で、そのIT会社を
止むを得ず退職した後、地元の温泉施設に清掃アルバイトとして入社した。

そこでもキャラクター達が伝わった他、様々な人達に出会った。旧友たちと同様、清掃の仕事以外の方面で頑張っている姿、それが周りの人たちをも幸せにする事も知った。
更にイラストに磨きをかけるようになった他、溺れていたゲームセンターのゲームも断ち切るようになった。

温泉施設時代は良い事ばかりでなく、一時期ではあるものの職場が荒れ、私がいじめの標的になっていた時期もあった。
自殺を図ったが皆に助けられ人の優しさを改めて感じさせられたの共に、いじめた奴らを見返したい思いが芽生え、更にイラストへの磨きは加速した。
人間は必ず一つ長所がある、それに気がついて欲しいとの思いからキャラクターの設定をかなり深くした他、ただ「楽しむ」だけでなく生活等の役に立てて欲しいとの思いや私の地理好きが高じて、郷土色のあるキャラクターに仕上がっていた。
今も設定がかなり深い上、郷土色もある。

入社から約3年が経ち、私はIT業界の復帰を決意、内定をもらい温泉施設に別れを告げた。
しかし、客先の面接に失敗した事や会社の雰囲気が合わなかった事から、その会社はすぐ辞める事となった。温泉施設の方々には申し訳ないけど。一方、社長はじめその会社の方々にも私のキャラクター達を理解してもらえた。

ショックの他、発達障害を疑うようになり、カウンセリングも受けるようになった(現在は終了)。
同じ頃、堀江貴文氏の「ゼロ」という書籍に出会い、一度の人生を有意義に使いたい、やりたい事をとことんやりたいと考えるようになった。その後、製菓工場でアルバイトも始めた。

やはり製菓工場でも、私のキャラクター達を理解してもらえた。在職中に更に多くの人達に見てもらいたいとの思いでpixivというイラストのコミュニティーサイトでの投稿も始めた。また、小学校時代の大半を家族ぐるみで過ごしながらも再会できていなかった2人の幼馴染たちとも17年ぶりに再会を果たし、彼らにも伝わる事となった。

その後、工場と並行しWeb会社へ研修で訪れることとなった。自作のキャラクター達がきっかけで。アプリケーションやホームページも考えてくれていた。実際、それらを作成する事になった時は嬉しかった。後に正式にそこで働く事も決まっていた。

高校時代は落ちこぼれで、ゲームセンターに溺れた期間も長い、転職も繰り返している等コンプレックスの多い私にとっては大きな転機と考えた。また、そんな自分を良くしてくれた方々への恩返しができるとも考えた。
家族を蔑ろにする訳ではないけど、自立すると共に実家を出たかった。また、生活困窮から抜け出せると共にてんかん持ちの弟も私なりの方法で助けたかった。

まさに色々な面で大きなチャンスだった。もちろん、工場の方々も喜んでくれていた。最近、温泉施設時代に出会ったプロの漫画家の方と再会し、私の才能を褒めてくれた事もきっかけに前に進みたかった。

気がつけば、イラストには沢山の思いが詰まっていた。

しかし、工場を退職直後でホームページも完成間近の所で悲劇は起こった。

そのWeb会社は決して規模は大きくなく、資金繰りが難しい事等から、社員になる事を断念せざるを得なくなった。しかも工場を退職したばかりの日に…。

会社を辞めざるを得なくなった事ではなく、自分の今までの生き方を全否定されたかのように、大きなショックを受け、自殺を図った。

しかし、怖くてできなかった…。

以後も不眠や疲れ、無気力等に苛まされる毎日が続いた。もう何もしたくなかった。自殺できなくても、早く死んでしまいたかった。

今も別の仕事と治療の毎日を送っているが、終わりの見えない将来への不安はいつ抜け出せるのだろうか?
もちろん、夢を諦めたくない。