僕は人間不信に気付いたのはついさっきでした
いや本当は前から自覚してたけど意識しなかっただけだったと思います

アンケートの質問を見て、当てはまってるな、やっぱそっかなんて考えてました
人間不信になってからは表面では普通の学生裏側ではひきこもりのような状態です

ただ一つ謎なのは人間不信の人のほとんどは自分の事しか考える事しかできないほど視界が狭くなると思うのですが

例えば、成績が悪くなって親に責められるとします (まぁ、他にも何か自分が悪いことでもいい)

確かに僕は自分の事を悪く言われ嫌には思いますが頭では覚えようとしていない報いだと納得できます

そしてそれなら自分より悪い人はどうなんだと問い、進学もできない馬鹿なんて知らないなどと言われた時僕自身、自分は頑張ってないのは一番分かるけど

よく知りもせず、家庭の事情なんかもあったりする人がいるかもしれないのにそんな事をいう親に本心でとてもイラついたという実体験があります

こんな事を思う僕は偽善者なのか、そのことで他人に褒められたい馬鹿なのかと卑屈的になったりします

僕は前からもいじめなどをみるとできる範囲で手助けをしています
そのことで感謝されたりしてはいますが
それは自分の心の闇を肩代わりしてほしいというサインを気づかぬうちに出していたのかと

僕は自分を様々な視点で評価していますが普通の人の考え方が一切分かりません

だから普通の人とも違うと思いました
何気ない家族で揃って昼ごはんを食べていた時です

自分にとって普通に考えた事を他人に話すと
そういうのやめたほうがいい、会社にそんな奴がいたら怒るなどと言われることがあり

自分が人と決定的に違うことは深く考えすぎていることにあると思いました
ですが僕は治したいと思いません

何故ならもしこの卑屈な態度を治したらおそらく僕は普通に戻ってしまうからです
普通、いいことなのでは?と思うでしょう?

ですが僕にとっては今やこれは性格のようなもので失うのが怖いのです
元々人をうたがうようになったのは三年前親友と絶交したことにありました

その親友はなかなか休日遊べず、約束してもすぐ破る人でした
そして一緒に遊んだ日は親友が他人の約束をコミニケーションアプリで断っているのを目撃していました

でも一緒にいると楽しいからなんてきっとその時僕は楽観的に考えすぎていたのでしょう

それから小さなことのすれ違いが重なり合い絶交しました
しかしその時の僕は孤独を恐れた

だから仲直りしようと自分の心の何かを繋ぎ止めるかのように戻しました
しかしそんなギリギリな関係はいつまでもは続かず、二度目の絶交をした時僕の何かが消えたような気がしていました

僕にとってこの人とのつながりは心の中では互いを自分の心を埋めるためだけに利用しているようなものです

人は理想を人に押し付けてそれに適合する人を好きと言います
理想は小さなことでも少しずつ大きくなって最後には互いを壊すものです

僕はこれを『理想のキャッチボール』と言っています
そして理想とは欲望と似たようなものです

人の醜い本能が人を好きだと錯覚させてるのでは?なんてこんな風に深く、深く考えてしまうのはきっと僕の良いところであり、悪いところでもあるのでしょう。

そんな事を思っていたころ、僕は人の情にでも飢えていたのか
人と付き合い始めました
しかし長くは続かず三ヶ月程度のものでした
僕は最後の希望を自ら断ち切ったのです

この世に絶対の信頼関係が今まであったでしょうか?
裏切りといえば「走れメロス」でもそうです

信頼し合っていた二人でさえ自分が危なくなれば疑いを持ち出す
創作された理想でも絶対の信頼は存在していない時点でこの現実にある筈がないのです

だから僕は人が嫌いです
僕が人を本当の意味で信じ、頼る事はあるのでしょうか?

そして今僕は同じ状況の人を頼ってみた
つまり自分でも知らぬうちに現状をかえたかったのでしょう

長文すいませんでした!
共感できなければスルーしてもらって構いません!!