家族との関係について意見をください。

初めて相談させてもらいます。27歳の女です。
これまで生きてきて、家族(特に母親)との関係に常に悩みをもっているような状況で、このたび自分の中でこれまで張っていた糸が切れたような、そんな感覚があり、相談させていただくことにしました。

私の家族は父、母、私、2歳離れた妹です。
父は一人っ子で育ち、昔から優しい人でしたが、無関心であることは否めない、そんな人です。
母は物心ついたときにはシングルマザーの家庭であり、母(私からは祖母)2歳離れた姉(私からは叔母)と生きてきました。祖母は離婚を機にうつ病になっていたようで(私の記憶の中でもたくさんの薬を飲んでいたイメージが強いです)、また昔の人ですから、離婚によってかなり貧しい生活状況だったようです。それから、叔母はあまり親しくないのですが、母によると何らかの精神障害をもっており、精神科への入院歴もあるようです。そんな中で母は奨学金で高校に行き、卒業後は、ある専門職につき、さらに数年後、父と結婚したようです。

私の幼少期は、母は優しいけど怒ると人が変わったようになる、というイメージでした。強迫的な部分が強く、私が母の言うとおりにしないと(具体的に思い出せないのですが、何か悪いことをしたんだと思います)、叩いたり、大きな声で怒っていました。記憶も曖昧なこの頃のことで強く覚えているのは、母方の祖母の家で怒られている場面です。私は祖母の横に座っていて、私に向かい合う形で母がすごい形相で怒り、私を叩いていて、祖母が「そんなにしたら可哀想だから、もうやめてあげて」と庇ってくれているのです。何をして母を怒らせたのか記憶がないのですが、強く私の中に残っていて、今も時々思い出すのです。

私が幼稚園に入るころには、父の転勤で都市部へ引っ越すことになり、この頃は一番母は安定していたように思います。私が小学校に入ると、母は昔ついていた職業にパートで出るようになりました。その頃は母は穏やかで基本的にいつも笑顔だったように思います。

ですが、いつも私が気になっていたことが何点かありました。それは、やはり時々スイッチが入ったように怒ること(発狂するという表現が適切に思います)、他者の前であからさまに私をけなすことでした。前者に関しては、よく覚えていることが二つあります。

それは私が悪いのですが、自分の部屋を片付けるように言われているにも関わらず、私が片づけをしなかったのです。そうしたら、母にスイッチが入ってしまいました。勉強机の上、引き出しの中、押し入れ、本棚など、部屋にあるものを全て投げ散らかしはじめ、みるみるうちに部屋は泥棒に荒らされたような状態になってしまいました。そして、「はい、片付けなさい、あんたのせいだからね」と言い放ち、部屋を出ていきました。私は一瞬圧倒されましたが、どうしようもなく片付けるしかありません。泣きながら片付けるしかないのです。しかし、それも小学校の中学年ぐらいになると当然のことになってきて、夜遅くなっても片付けられないと気づくと、荒らされた部屋でそのまま眠りにつくこともありました。

後者については、私がその当時最も辛かった出来事かもしれません。友人やその家族が家に遊びに来ると、私をけなすようなことを笑いのネタにするように言うのです。これに関しても今でも覚えていることがあります。リビングで友人数人と母とお菓子を食べながら話をしていた時、私はトイレに立ちました。トイレの個室に入った時、私は小さな咳をひとつしたのです。そうすると、リビングから「あまりにも自分の〇〇(下品ななので・・・)が臭くて息ができないのかね、ははは」と笑う声がするのです。友人もそれを聞いて笑っています。たったそれだけ、今では笑いごとにもできますが、まだ幼かった私は自分がいないところで笑いものにされているように感じ、ものすごく悲しかったのです。それによって、その後の友人と過ごしている時間も全く楽しめず、そうすると母に「友達が来ているのに失礼な態度をとって」と怒られました。でもなぜかわかりませんが、”母の言動に傷ついた”という自身の気持ちは言えませんでした。今でもなぜ言えなかったのかと不思議に思うのです。

そして、母はいつも私のことを”とろい”と言っていました。人前では「この子はおっとりしてて」や「ちょっとトロコちゃんで」と笑いを交えて表現していましたが、家では何をするにも「ほら!早く早く!」「練習しないと、とろいままなんだから、早く!」といつも言っていました。その影響か、現在も何かする際に、”急がないと”という思いが強いです。逆に仕事が早いと言われて得しているのも事実ですが・・・。
また、母には特有のルールがあり、それを守らないといつも怒られていました。たとえば、ドアを閉める際にはドアノブを下げたまま閉め、静かにドアノブから手を離す。これを怠って、ドアがバタンと音を立ててしまうと怒られるのです。こういった点は今思えば異常な程、強迫的だったように思います。

小学校の高学年になると、父方の祖父が事故で亡くなり、祖母が一人になってしまうという理由で、幼少期以来の地元(田舎)へ戻ることになりました。生活の場は、父の実家で、父方の祖母と同居になりました。母がおかしくなっていくのはそれがきっかけでした。私が祖母と親しくすると、私と二人でいるときにそれを責めるような言動(私へのあてつけなのか、といった内容)が続きました。実際に祖母とは嫁姑問題が以前よりあったようでした。それも祖母はかなりひどい虐めをしていたようでした。そして、同居生活も1年半経つと、問題が表面化し、同居の解消を余儀なくされ、実家に祖母を置いて、同県の都市部へ、転居することになりました。

中学校に入ると、母は祖母と離れたものの、病的な部分が出るようになりました。「死にたい」と泣き叫びながら誰かと(友人や叔母、親戚など)長時間電話をしたり、「死にたい」という母への対応に困る家族を見て、今度は怒り出したり、といった状態でした。その当時は私も思春期に入っていたので、そんな母にうんざりしていた部分が強く、一度(言い過ぎたとは思いますが)、「死にたい死にたいって言うだけじゃん。そんなに思うなら首吊りでもなんでもしてみれば」と言ってしまったのです。当然、状態が良くなるはずもなく、今度はそんな発言をした私への攻撃の嵐でした。私が言い過ぎたと謝ろうとも、「親に死ねと言った」といつも私を責めました。ですが、私が言ったことも事実であり、私にはどうすることもできませんでした。

母はこんな時もスイッチが切り替わると、笑ったり、健康な人と同じように食べたり、寝たり、ができる人でした。そんなことも私には理解できず、ずっと寝込んでいるわけでもないし、どうして突然不安定になるんだろうと不思議に感じていました。

私が高校に上がると、今度は母方の祖母が急性の心不全(慢性的に心臓は悪かったのですが)で突然死してしまいました。祖母は離婚後ずっと人暮らしでしたので、実質孤独死の状態で、亡くなってから数日後に近所の人に発見されました。それを受けて、母は「私の親はこんな目にあわなきゃいけなかったのか」「あんたの親のためにはいろんなことをしてきたのに」と父を責めるようになりました。これまでにも姑に虐められてきたことで父には強く当たっていましたが、それ以上にひどくなる一方でした。高校生になると、母は食事の準備をほとんどしなくなり、「しんどいから」と横になったり、外に出たり(パチンコに依存していたようです)するようになりました。でも私はそれを悲しいとは思いませんでした。母が家にいて、「死にたい」と泣きわめいたり、父と喧嘩したり、私を責めるようなことがない方が楽だったのです。

母は、私が小学校の頃に数年パートに出て以来、働くことはしなくなりました。それについて、父は至って普通の会社員でしたので、実際は働きにできてくれたら助かるのに、と私に漏らすこともありました。ですが、母は私に「私は絶対に働かない。死ぬまで私を養わせる。それがあの人にしてもらわなきゃいけないことだから。」と猛然と言ってのけました。その頃の両親の仲は最悪でした。いつも母は怒っていて、父は一言二言返すだけで、あとは無言を貫く、といった形ができていました。父の行動は私にも理解できました。言い返すと何倍にもなって返ってきて、それは全て自分へのダメージになるからです。両親が言い合いをしている中、私は自分の部屋に隠れて、自分を刃物で傷つけるようになりました。それだけが自分の逃げ道だったように思います。もちろん、そんなことが母にばれたらなんて言われるかは想定していました。「私へのあてつけか」「私を苦しめようとしている」と言うでしょう。私は学習していましたから、肩や大腿、決して見えないところを傷つけては自分を安心させていました。

高校卒業と進学を考えだした頃、私は看護師になろうと思っていました。小さいころから、自分は医師か看護師かわからないけど、医療職につくと感じていました。
母は私に払う学費はないと言い出しました。私もその状況は理解していたので、奨学金をもらって大学へ行こうと考えていました。ですが、母は入学金を含め、学費が賄えるのかと言い出し、一時は進学をあきらめるか、手ごろな費用で行ける専門学校に行くか、と考え出していました。自分の人生が現実的に見えてきて、大きく悩んだ時期でした。そんな私を見て、ある時父は小さな声で言いました。「大学には行け。奨学金は借りろ。それ以外のところは払うから。」と。

希望していた大学にも合格し、自宅から通学することになりました。大学では自分の学びたい分野を専門的に勉強できて、本当に充実した環境でした。それまで自傷行為でした自分を癒せなかった自分が嘘のように変化するのを感じました。しかし、簡単でもなく、家に帰ると同じ状況が待っていました。

その頃から私は、看護の勉強をしながら、母を”患者”として見るようになりました。これは今までのどんな対処法よりも効果的でした。患者だと思うと優しくなれて、どんな言動も「病気だから」と許せるような気がしました。というより、そうするしかなかったのです。私のそんな関わり方に、母も少し柔らかくなったように感じました。しかし、私は”看護者”でしかなかったのです。私から発される言葉は、私自身の言葉ではなく、”母が言ってほしい言葉”なのです。私がする行動は”母がしてほしい行動”なのです。

看護師になるため、国家試験を控えた頃、それまで母を悩ませてきた姑である、父方の祖母が亡くなりました。病死でした。母を苦しめてきた存在だったため、いつしか私は祖母への愛情もほとんどなくなっていて、ある意味では母を呪縛から解放したんじゃないかとさえ思えました。ですが、そう上手くはいかず、これまで以上に「私を苦しめて」と父や私を責めるようになりました。

自分で受診していたメンタルクリニックからもらった少量の精神薬を、過量服薬し、自ら救急車を呼んでいたこともありました。大学の授業が午前中で終わり、家に帰ると、家の前に救急車が止まっているのです。そしてマンションの自宅へ上がると救急隊がいるのです。「薬かー」「はぁ・・・」と全く切迫感、緊張感のない救急隊。部屋に入るとリーダーらしき救急隊が横になっている母に、自分で精神科へ受診するようにと説明しています。私を見るなりその男性は「娘さんですか。お母さん薬を多めに飲んじゃったみたいなんだよね。量がそんなに多くないし、緊急性はないから、病院連れて行ってあげて。」と言い、帰っていきました。救急隊3名に謝罪し、母と二人残された私。自宅にいるのに自宅じゃないような感覚。でも私は妙に冷静で、すぐ自宅から近くの総合病院へ母を連れていき、即日任意入院。

母を入院させて、家に帰ると、定時で帰宅した父はスーパーで買った弁当を食べていました。何事もなかったかのように。それでいいんだとでもいうように。

短期間の任意入院を経て、退院した母は元気になったようでしたが、根本は何も変わっていませんでした。「私は逃げ場所がほしかったの」「休むことが必要だった」と繰り返す母に、いつものように”病気だから”と納得しつつも、この人は周りにかけた心配や迷惑をなんとも思っていないんだなと呆れる思いでした。

私は大学卒業後、看護師になり、現在は看護師として働いています。自宅は出て、高校生のころから交際している彼と同棲を始めました。社会人になって、不規則な勤務をしつつも、母はことあるごとに私を呼び出します。16時間の夜勤明けでもお構いなし、先輩と食事の約束をしていても「私がこんなにしんどいと言ってるのに来ないなんて薄情だ」と何通ものメール、電話をよこしてきます。そしてほんの少しの心配をしつつ、実家へ帰ると、大型ごみを出してほしい、なんて用事だけだったりします。そして、そのことについて私が不満を漏らすと、「もういっそ帰ってこなくていい」「もう家には入れないから」と吐き捨てて追い出されます。

私はなんのために生きているのかわからなくなりました。
仕事は楽しいです。でも母の些細な言葉で私の自己肯定感はぼろぼろになるのです。
数日前には母が「原因不明の痛みが続いている、どこに行っても問題ないと言われる」と何度も言ってくることにうんざりして、私が「精神科に行ってみたら」とぽろっとこぼしてしまった一言にスイッチが入ってしまいました。
翌日仕事を終えると「私を精神病扱いした(実際、精神障害ではある)」「あんたなんかにもう用はない」「大学でかかったお金はすべて返してもらう」と10通以上ものメールが入っていました。「金を返したら、もう用はない、以上」というメールが最後でした。

このことで私の中の糸が切れてしまいました。
もう母が本当に死のうと、私は何とも思わないかもしれません。私の言葉が母を傷つけたのだとしたら、私はもう今後母を傷つけないように、母からは離れているべきだと思うのです。
今後もし、自分が結婚して、家族を持ったら・・・。それでも家族を放って、母の呼び出しに応じて、母の話を聞き、母の言ってほしいことを言う、そんなことを繰り返すのかと思うと、人生に絶望してしまいます。

私が悪いのでしょうか。母の言う通り、私のせいで母はこんな風になったんでしょうか。
私がいけなかった、それでいいから、もう続けていきたくありません。
私が家族に負担させた金額も全て返すから、縁を切れないかと毎日考えています。
どうしたらいいのかわかりません。長々と書いてすみません。どんなことでもいいです。誰かに相談したかったんです。