父に人生を滅茶苦茶にされる、正直殺してやりたい。


出戻りです。

はじめにここに書き込んだのは2016年1月、当時大学1回生でしたが、4回生になった今、まるで状況が好転しておらず、呆れて苦笑し続ける毎日です。

高校1年生の冬、母を亡くしました。それまで、いわゆる仕事人間でほとんど関わることのなかった父との2人暮らしが始まり、以前からではありましたが、一層ひどくなった暴力や暴言に悩まされ続けています。

何から書けば良いか迷いますが、時系列にでもしようかと思います。
中学3年生、受験を控えた頃、私は美術系の高校へ進むことを考え、母と二人で準備を進めていました。お世辞にも学力はそれほど良くもなく、デッサン等を重視しているところ…など選び、ほとんど候補を決めているところで、父による爆弾投下。全て白紙にされ、普通科の高校を受けさせられました。
私立の進学高に通うことになり、学力も追いつかない上、母も5月から入院し精神的に不安定(この頃から母の病院関連の用事があるとかでよく放置されていました)、当初電車とバスで通うはずだったところを、友人(女子サッカーをやっていた)が自転車で通うということを迂闊にも漏らしてしまったせいで、毎日往復2時間かかる距離を自転車で1年弱通わせられました。
この頃から、言うなれば私と父との間の盾になってくれていた母がいなくなり、その世話などのストレスが私に向いていた気はしました。母に面会に行っても、病状などはほとんど知らされることはなく、しかし明らかにやつれていく母を見て不安で泣いていても、「なんで泣くばかりするんだ!」と殴られました。
また、ストレスから来るものだったのか、慢性的な頭痛が続き、言わば不登校のような状態が続いていましたが、それも「嘘をつくな」「これ以上負担をかけるな」と取り合ってもらえませんでした。一度、学校に行くふりをして母の病室に駆け込んで泣きついたことも、未だに蒸し返され「お前が余計なストレスをかけるから悪化して死んだ、お前が殺した」と言われます。
その後、12月に母を亡くし、2人で暮らし始めてからもずっとこの状態が続いています。
少し後出しになってしまいますが、頭痛を訴えてから、8月か9月ごろだったでしょうか、大学病院の中の様々な科を転々としながら、心療内科に掛かるようになりました。しかし、カウンセラーの方とお話しするときも、父が同席し、私が少し自分に都合の悪いことを言うと「いや、それにはこんな理由が」と口を出し、まともにカウンセリングを受けた覚えがありません。処方された薬(朧げですがサインバルタ?)とロキソニンでなんとか頭痛は抑えられたものの、「お前は金がかかる」「嘘つきの癖に」と精神的負担は変わらぬままでした。カウンセラーの先生が「暴力や暴言だけはやめてあげてください」と言ってくださっても、前述のような形で、私は次第に「お金がかかるだけなんだから、もう通わせるのやめればいいのに」としか思わなくなって行きました。
また、心療内科に通いはじめたのと同じくらいの時期から、高校まで車で送ってもらうようになりました。あくまで、自転車で通うのが当たり前という前提は崩されないまま、毎朝「学校まで連れて行ってください」と言わなければならず、また、そう言うと決まって「またか」とドスの効いた声で言われるのが本当に嫌でした。この時、学校に着くまでの間、起きていると延々と恨み言を言われるので、私は寝ていることが多くなりました。これは父がいる限り、家でも同じことで、可能な限り寝るか寝たふりをしていることが増えてしまい、今でも同じ状態が続いています。カウンセラーの先生には、寝てばかりいるのは良くないと言われましたが、関わらないためにはこれしか思いつきません。元々寝付きがいい方だったこともあり、休日には起こされなければ15時間かそれ以上眠っているようなロングスリーパーになってしまっています。

進路については、私は美術やデザインができれば何も問題はなかったのですが、父の出した条件は「4年生大学で県内(自宅から通える場所)」でした。
私は初め(高1)、近畿地方の有名な美大や芸大を目指そうとしていましたが、母に「うちにはあんたを一人暮らしさせられるようなお金はないから、家から通えるところでね」と言われ納得して県内にしましたが、その間も父の言い分は「お前は一人で生活できるような力がないに決まっているから県内にしろ」でした。もちろん母も、同じことは考えていたかもしれませんが、いつでも私が納得できるよう、きちんと真実を話してくれるのは母だけでした。
見栄っ張りで、「金がない」と言うのは極端に嫌うのも父の特徴です。

県内には美術やデザインを専攻できる大学は2つあり、一つは公立、もう一つが私立でした。結論から言えば、私は私立の方に通うことになり、こちらは、悪評こそないものの、Fランなどと揶揄される大学でした。
私は、はじめからデザイナーを目指していたわけではなく、イラストレーターにも興味があったため、そもそも後者に心が寄っていたのですが、とにかく実績が欲しい進学高の担任と、とにかく金をかけたくない父の勧めで、公立も受けることになっていました。私立は推薦入試でデッサンのみ、公立は一次入試でセンター試験とデッサン。一応、付け焼き刃で半年ほど、週に一回お昼休みを削って美術の先生からデッサンの指導を受けていましたが、全てが無駄に思えるものでした。
この事も、卒業を控えた今になってはもう収まりましたが、大学入学当初は「お前の努力不足で入れなかった」と散々言われました。余談ですが、公立に入学する生徒の大半が、美術系高校に通っていたもしくは、それなりの画塾(デッサンを見てもらった先生にも進められましたが、月数十万もかけるのは金銭面的に無理でしたし、そもそも私にそんなにお金をかけるわけがありません)に通っているなど、私のような何も専門的に学んでいない人間にはおよそ無理な挑戦でした。

大学に入ってすぐには、美術教員免許を取るか否かの選択がありました。これもまた先に結論を言えば、取得する気は無かったし、実際取得するための履修はしていません。これについては保護者も交えた説明会でも話があり、黙っているわけにはいかず、父は「取れ」との事でした。私は、その場で断ることはできず、有耶無耶な返事をしましたが、履修登録をする直前で踏みとどまり、帰宅してから「取得するためには、膨大な時間と単位を費やすことになるし、私は子供が苦手でもあるし、教職につく気はない。その時間を専攻の勉強に使いたい。」ときちんと説明しましたが、「お前は教職も取れなかった。能力がない、頭が悪いから。」と散々茶化され馬鹿にされ、今だにそのことを言います。これとは別に、色彩学という名前の科目を履修はしたが、自分の思っていたものと違ったので単位取得をやめたものも同様です。後述しますが、新しい家の外壁の色を決める時「おめえは色彩学もとってねえから色のことなんか分からんのだろうけど見てみろ」などと馬鹿馬鹿しい嫌味を言います。
美術やデザインについては私の方が明らかに造詣が深いにも関わらず、常に「自分の方が詳しい」と思い込んでいるのです。あれはただの子供です。構うのも鬱陶しい限りですが、大の大人があんな事をずっといつまでも恥ずかしげもなく言える態度に、殺さなければと思う気持ちが絶えません。

話が逸れましたが、私の学んでいる事全体も馬鹿にするスタンスは続いています。
芸術分野を学ぶことに、「絵を描いていればいいんだから楽だな」などと罵倒された事を数えるにはいくつ手があっても足りません。
現在はデザイナーになるべく就活をしていますが、それも気に入らないようです。


話は変わりますが、過去に2回ほど、警察の方にお世話になったことがあります。
1度目は、夜、父が暴れて首を絞められるなど、命の危機を感じたため、家から着の身着のまま飛び出し、警察に連絡し保護してもらいました。
しかし、私に身体的な外傷がないと分かると、いくらここに書いたような事を説明しても意味はありませんでした。
その後父が警察署まで私を引き取りに来ましたが、その時の警察の方の対応も「お父さんが迎えにきてくれたから、謝って。」でした。意味がわかりません。おそらく私に人権はないのだろうなと理解しました。
父は、若い頃営業職をしていたからか、外面だけはとても良いです。そのため、いつもの顔を知らない人間に助けを求めても、私が軽んじられ、酷く傷つけられます。私は外で誰かと喋っている父を見ると、別人にしか見えずゾッとします。
2度目、この時は、たまたま父が休みだった時に、ひどい頭痛が出てしまい、大学の講義を休むと言った際に、カッとなった父が「退学届を出してやる」と大学に向かおうとした時です。日常の些細なことで言い合いになった時、私を脅す時に使う常套句が「家から出て行け」「大学を辞めさせてやる」です。いつもはなんとか阻止するものの、ひどい頭痛で立っているのもやっとだったところを突き飛ばされて出て行ってしまい、私も頭が回らなくなっていたため、家まで駆けつけてもらいました。
しかし、警察の方の態度は明らかに父の味方でした。これまでに書いたことを掻い摘んで説明しましたが、「生活費は全部出してもらっているんでしょ?大学の学費も出してもらっているんでしょ?家事もやってもらっているんでしょ?」と、父の肩を持つことしか言いませんでした。
もういい加減うんざりした私は「警察の方は、私が殺されるか、もしくは自殺するか、せめて半殺しにされなければ動いてはくれないんですね。」と言いましたが、「そうならないために僕らがいるんです。」としか答えず、警察も信じられなくなりました。本当に死ぬしかないのか、考えました。
それから数ヶ月、今日から言えば数日前、些細な事で言い合いになった時、父からは「前は自分で警察を呼んだくせに、チュン太郎(どういう意味かはわかりませんが、私を馬鹿にする古い方言か何かでしょう)にされやがって、馬鹿が」と言われました。このことは警察に抗議するべきか考えています。あの一件で、父を調子に乗らせる結果になったのはまぎれもない事実です。私は抑止力を失いました。

現在は、一刻も早くこの生活から逃れるため、県外で就活中です。しかし、バイトも禁止され、自由になるのは小遣いとして渡される月々2万円のうち、昼食代や、衣料品や化粧品を買うのにかかる分を引いた、ほんの数千円のみで、会場までの交通費などはその都度申告しなければなりません。それも新幹線などの大きなお金を渡されるのみで、最近では昼食代も削らなければ首が回らない状態です。
口では「わしはお前のことを応援してやっている」と言うものの、交通費がいくらかかる、と説明した時には「そんなにかかるのか!」と明らかに私を非難するように怒鳴りつけられ、説明会に行く機会も絞らなければならず、悪影響しかありません。
これについて、父は大学時代の友人のお父様の紹介で就職をしたようで、いわゆる就活というものを経験していないにも関わらず、自分の気に入らないことは間違いであると決めつけるため、どう説明をしても意味がありません。

また、2月いっぱいで仕事をクビになったらしく、唐突に一軒家を買うと言い出し(私が物心ついてからアパートに住んでいます)、私には碌な説明もないまま内見に行った当日に契約を結び、家で履歴書やポートフォリオ(デザイナー職の面接などに持っていく、作品集のようなもの)を作成していると、引っ越し作業の手伝いをしろ、と度々邪魔をするなど、本当に私の人生を滅茶苦茶にする気のようです。
一度、説明会兼一次選考がある1週間前に、「ポートフォリオの最終調整に集中したいから、1週間くらい放っておいて貰えないか」と頼んだところ、「そんなのはお前の都合だから」と完全に無視をされ、まるで準備に身が入りませんでした。
家を出るつもりでいますが、そもそも就職が上手くいくのか不安しかありません。

本当に社会的制裁を加えてやらなければ気が済みません。一時は自分の命を断つことも考えましたが、あれがのうのうと生きて、私が死ぬなど虫唾が走ります。法律がなければ殺しています。
母は私が殺したと言ってきますが、母は生前「あんたが独り立ちしたら、離婚する」と言っていたり、夫婦喧嘩は絶えず、その時も暴力を振るい、ガンを患ってからずっと体の弱かった母をずっとフルタイムで働かせ、休日休んでいる時には「お前は何もしない、ぐうたらしてばかりいていいな」と嫌味ばかり浴びせ、過去に何があったのか私には分かりませんが、盗人呼ばわりするなど、もし心労で亡くなったのだとすれば、それは明らかに父のせいです。

一度家を出たら、住所を秘匿し、電話番号も全て変え、縁を切るつもりでいます。その後病気になろうが、死のうが私には関係ありません。
最後に裁判を起こし、必要最低限のお金以外は全て取り上げ、一切私に関わらないように判を押させるつもりです。これは恨みではありますが、当然の償いです。外側からの働きかけで動くものではありません。
母のお骨も、父方の代々墓の横の小さな夫婦墓に納められているので、もし可能であれば、どこか縁のある安らかな場所に移してあげなければいけないと思っています。

私は愛情など一笑に付されるような歪んだ家庭で育ちましたし、同じように私自身も歪んでいると思います。性格も決して良くはありません。ただ、人間として生まれた以上は自分の幸せを追求したいと思いますし、今目の前にある幸せはデザイナーとして活躍する事が第一です。


このことは、大学病院のカウンセラーの先生、高校の時の担任二人、県の電話相談の相談員の方、大学の心理カウンセラーの方に相談しましたが、いただいた回答は「いまは耐えるしかない」でした。もう5年になりますが、彼らの言う「いま」は一体いつまで続くのでしょうか?もちろんあと一年足らず、大学を卒業してからは必ず独り立ちします。私は慰めや同情が一番の目的ではありません。今までたくさんの事例や症例を見てきたプロの方に、「どうすればいいのか」が聞きたいのです。
様々なサイトも見て、「とにかく一刻も早く離れて、忘れるのが最善」「自分が幸せになるのが一番の復讐」という文言も目にしましたが、違います。法に触れない範囲で、きちんと償ってもらいたいのです。
殴られたり引っかかれたりした際の跡が残る傷については写真を撮って保存してあります。怒鳴られた時の音声も録音してあります。数は少ないですが、私の発言が嘘ではない証拠くらいにはなるのではないかと思います。将来的には、裁判を起こして慰謝料ないし謝罪を求める事を考えています。
そのために何が必要か、アドバイスをください。よろしくお願いします。