『母と過ごすことが苦痛です。』

初めて相談させていただきます。

私の悩みは、母親と過ごすことが精神的に苦痛であることです。
理由を短くまとめると『母親が毒親であるから』だと自分では思っています。

ただ、子供の我儘を聞かない親を、子供が毒親だと訴えるケースが多々あることもあります。
なので、『私が過去に受けた被害とその後遺症』と『今も受け続けている被害』を書いていきたいと思います。



これから皆さんに相談するにあたって、まず最初に私のプロフィールを少し紹介したいと思います。

僕は高校2年生で17歳になったばかりの、クエスチョニングです。

クエスチョニングって何?って思う方は、未だにとても多いと思います。
なので、軽く説明をしますね。

クエスチョニングとは、身体の性別を問わず、自らの性別や性的に好きになる性別を決められない・意図的に決めていない人達のことを指します。

僕の場合は
『身体は女性で産まれてきたけど、男性も女性も性的に好きになれるし、自分が女だとも男だとも思いたくないな』
みたいな感覚です。


次は僕の家族構成について書きたいと思います。

今は母と祖母、そして僕より2個年下の弟と4人暮らしをしています。

昔はこことは違う家で、最初は母と父、祖母と祖父と僕の5人で暮らしていました。

ですが、しばらくすると祖父が亡くなり(病死でした)

またしばらくすると父が家を出て(これは後で説明します)

そして弟が産まれて、最後にあの家を出る前には、今と同じ家族構成になっていました。

家族構成についてはこんな感じです。
次に、僕の持っている持病について書きたいと思います。

僕は、アスペルガー症候群です。
何それ?って思う方もいれば、げっ…あのアスペルガー症候群?って思う方もいらっしゃると思います。
とりあえずは、何それ?って方に向けて、軽く説明をしたいと思います。

アスペルガー症候群は、発達障害のひとつです。
主な症状は
・コミュニケーション障害
・共感性の欠如
・こだわりが強い
・感覚過敏(精神的なもの)
で、知能や言語の遅れはありません。
いわゆる『空気が読めない人』の症状に、病名をつけたようなものだと僕は解釈しています。
症状の重い人は、本当に人の話を聞けなかったり、相手のことを全く考えずに行動したりすることもあります。
なので、よく周りから迷惑がられ、嫌われたりいじめられたりする傾向があります。

僕も昔は人と上手くコミュニケーションが取れず、いじめを受けることが多々ありました。
ですが治療の結果、今は大分症状が軽くなり、もうほとんど症状は出ていません。

自己紹介をまとめるとこんな感じです。
・現在、高校2年生・17歳
・クエスチョニングである
・アスペルガー症候群を患っている
・今は母と弟、祖母と僕の4人で暮らしている



ここからは本題です。
『何故、僕が母を毒親だと思うのか』
『過去・そして今現在僕が母から受けている被害はどのようなものなのか』
について、書いていきたいと思います。

まずは、僕の過去の話からしていきたいと思います。
僕が覚えている1番昔の記憶は、僕が幼稚園にいっていた頃の記憶です。

その頃は、母と父と僕、そして祖母と祖父で暮らしていました。
僕は幼稚園で、多くはないけど仲の良かった友達と遊び、楽しい日々を過ごしていました。

ある日の夜、夜中に僕がお手洗いに行こうと目を覚ますと、父と母が喧嘩をしていました。
僕はその様子を、母と父がいる場所より手前の壁の後ろに隠れて、こっそり覗きました。
そこで目にしたのは、壁を背にして立っている父と、その父に怒鳴りつけながら詰め寄る母の姿でした。
僕があんなに怒った母を見たのは、あの時が初めてだったと思います。
僕は酷く怯えました。
『みつかったら、ぼくもおなじようにされるかもしれない。』
そう思った僕は、お手洗いに行くことも忘れ、母や父に気付かれないように、でもとても急いで布団に戻ると、寝たフリをしました。

その夜からです。
あの時父にしていたのと同じことを、母が自分に向かってしてくる夢を、何度も何度も見るようになりました。
日が経つにつれ、その夢を見る頻度は増え続け、ついには毎晩その夢を見るようになりました。
そして、僕はその夢を見る度に、顔の周りを涙なんだか鼻水なんだかよくわからないものでぐちゃぐちゃにして目を覚まし、胃の中のものを吐きました。
その度に母が起きてきて、背中をさすりながら
『どうしたの?』
『大丈夫だよ』
と声を掛けてくれるのですが、僕はもう吐き気に耐えるので精一杯で、何も言うことはできませんでした。

それのせいもあり、僕は幼くして逆流性食道炎を患いました。
外でもちょっとしたことですぐに吐き気をもよおして吐いてしまうようになりました。
ある年のハロウィンのときに、パーティーに呼んでくれた友達の家で吐いてしまいました。
母は僕を責めました。
『あんなことしたら友達に嫌われちゃうよ』
と言われたのを覚えています。
それ以来、僕には友達という友達がいなくなってしまいました。
幼稚園でも、することが決まっていないときは、1人で部屋の端っこに行って壊れたガラケーをおもちゃにして遊んだり、本を読んだりしていました。

あまりにも夜中の症状が続いたので、母は僕を病院に連れていきました。最初、何処の病院に連れて行ってくれたのかは、今では覚えていません。ですが、その病院で、精神科か何かを専門とするクリニックを紹介していただいたことは確かです。
僕はそのクリニックで、沢山の検査を受けました。そして、アスペルガー症候群だと、診断を受けたのです。

僕には、小さな小さな錠剤の薬が処方されました。それがどんな薬だったのかも、今では覚えていません。
僕はそれを毎晩飲むようになりました。
それを飲むと、夜起きずに眠ることが出来ました。

それから時間が経ち、祖父が病死してからもしばらく経ったある日。
父が出ていきました。
父はその前から母と何か喧嘩をしたようで、リビングに入れてもらえていなかったことを僕は覚えています。
その原因が、父が仕事で金銭関係のトラブルを起こしたことや、家のお金を持って逃げてギャンブルをしていたことだということを知ったのは、ずっとずっと後のことでした。
父が出ていった後は、てんやわんやでした。
収入がなくなり生活費が何一つ払えなくなったことで、ガス・水道・電気も止まりました。
祖母は今も続けていた看護師の仕事をし、専業主婦だった母は給食センターでパートを始めることになりました。
弟が3才で、私が小学生に上がる年のことでした。

母は、私や弟が学校や幼稚園に行っている間や夜に、仕事に行くことが多くなりました。
母が夜中に1人で泣いていたこともありましたが、それはその一回きりでした。
私は小学校で新しい友達を作り、その子達と仲良くしていました。
そして週に一回、放課後に『ひまわり』という特別支援学級に通っていました。
そこでは…いじめ等がなかったからでしょうか…過ごしやすかったです。

2年生に上がった年から、いじめを受けるようになりました。
悪口を言われたり、馬鹿にされたり、仲間はずれにされたり、無視されたり。
それはクラスや学年に限らず、学校内全てで行われていました。
その頃の僕は、感覚過敏の症状が出ていたからなのか、とても弱虫で泣き虫で、怖がりでした。
少しの言葉で酷く傷付き、周りが見えないパニック状態に陥ることが多々ありました。
それによって放課後でもないのに学校から逃げ出そうとしたり、授業中に物陰に隠れたり、顔を伏せて泣いたりすることもあり、色々な人に迷惑をかけることもありました。
それでも3年生に上がると特別支援学級に通うことはなくなり、5年生に上がった頃からはいじめは全くなくなりました。
僕の症状が落ち着き、また周りも成長したからだと思っています。


母は僕が小学校に上がった頃から、僕と弟に厳しくなりました。
そして、強く縛るようになりました。
『自分が父親の代わりもしなければならない。』
『自分1人で、この子達を守らなければいけない。』
そう思った結果のことだと思います。

ですが、時々行き過ぎたことをすることがありました。
僕が酷く傷付いたりパニックになりやすく、母も色々なことがあったあとで自分をコントロールしずらかったのが原因の一つだと僕は思っています。

僕が小学1年生の頃、友達と遊びに行きました。
覚えたての自転車で遊びに行ったのですが、僕は自転車で坂を登るのがあまり上手ではありませんでした。
すると一緒に遊んでいた2、3人の友達が
『一緒に練習しに行こう‼︎』
と言ってくれたのです。
僕からすれば断る理由はありません。僕は友達についていきました。
すると、とても短くて、でもとても急な坂につきました。
そこで僕と友達は自転車で坂を登る練習をしました。
そろそろ帰ろうとしたときでした。
大人の人がやってきて、僕達を怒りました。
なんでも、その人の敷地だったらしいのです。
僕はそんなこと知りませんでした。
よくわからないまま帰ってくると、怒った顔の母が待っていました。
友達の親から電話で、僕と友達がしたことを聞いたようでした。
『なんであんなことしたの⁈』
『他人様の敷地に入っちゃダメでしょ⁈』
と母に怒られましたが、僕はその敷地のことなんて知らなかったし、そもそも小学1年生です。言われてもわかるはずありません。
ですが、何か悪いことをしたことはわかりました。そして何より、夢に出てきていた母の姿を思い出し、酷く怯えました。
『ごめんなさい、もうしません。』と謝ると、母は許してくれました。

それから小学校を出るまでずっと、学校が終わってから母の仕事が終わるまで、学童に預けられました。
学童では仲の良い男友達もでき、その友達と学校でもよく話すようになりました。
ですが、鍵を待つことはもちろん、友達と自分、または自分1人で外に行くことは休みの日でも放課後でも禁止されました。
親がいなければ、家から徒歩5分の場所ですら行ってはいけませんでした。
僕が1人でいけたのは、学校だけでした。
他に僕が小学校にいた間に行った場所では、全て母が手を伸ばせば触れられるところにいる状態でした。
友達の家に上がったり、自分の家に友達をあげることも禁止です。これは今も続いています。
そして、ゲーム等も禁止されていました。

小学2年生の頃、僕は家出を試みました。
母に『お前なんかうちの子じゃない、出て行け‼︎』と言われたのがきっかけでした。
この頃から、母の言うことが過激になってきていたと感じています。
母がイライラしているときの怒りは、常に周りの人に向きました。僕に向くことが多かったような気がしています。

母の気分によって、
『そんなことはするな』
と自分の行動を否定されたり
『お前の選ぶ服はダサい』
『馬鹿じゃねえの?』
『気持ち悪い』
『⭐︎⭐︎(弟)の方がずっと可愛いわ‼︎』
『なんで周りのこと同じにできないの⁈』
と言われたり、怒鳴られたりしました。
僕が言われたことに納得できず反論したり、何故そういうことを言うのかと聴くと、
『口応えをするな』
『素直じゃないなぁ。なんで、はい、そうです。ごめんなさい。って言えないかなぁ。』
『煩いなぁ、子供は黙って親の言うこと聞いてればいいんだよ‼︎何にもわかんないし何にもできないんだから‼︎』
『立場を弁えろ‼︎』
と怒られました。
それでも僕が何かを言うと
『うーわ、まだ言ってるよ』
『煩いねぇ、しつこいねぇ…本当に口が減らないね、あんたは。あーやだやだ、まだ言うの?諦めが悪いわぁ』
などと言いました。時には弟や祖母に同意を求めたりもしました。2人とも、母が怖くて何も言えず、同意するしかありませんでした。
僕がそれでも抵抗すると
『煩いなぁ、まだわからないの⁈もういいよ、好きにすれば⁈私もうあんたのことはなんにもしないから‼︎1人で勝手に生きてれば⁈』
『もう出てけ‼︎お前を見るだけでイライラする‼︎お前なんかうちの子じゃない、お前なんか大っ嫌いだ‼︎‼︎』
と罵りました。
殴ったり、蹴ったり、服の襟や髪の毛を掴んで壁や床に僕を叩きつけたりすることもありました。
僕は恐怖し、怯え、息もまともにできないほど震えました。

僕は自信を失い、自分の意見が何一つ言えないようになりました。

そんな中、小学校5年生になりました。
小学校5年生ともなれば、友達同士で遊びに行く子も当然増えました。
僕が母に『私もいきたい』と言うと、親がついていないとダメだ、と言いました。
『友達同士でいきたいの』というと、そんなことはしてはいけない、と怒られてしまいました。
僕は友達同士で遊ぶことを諦めました。
母を怒らせたくなかったからです。

僕は中学校に上がりました。
地元の中学校だったので、小学校からの知り合いや幼稚園からの知り合いも多くいました。学童で仲良くなったあの男友達の多くも一緒の学校でした。
中学校では、多少の人間関係のもつれはありつつもいじめといういじめはなく、新しい友達もでき、楽しく過ごすことができました。

中学校に入ってからは、友達と遊ぶこともできるようになりました。今まではお年玉ですら没収され全くなかったお小遣いも、月に2000円もらえるようになりました。
ですが、あんまり遠くに行く時は連絡をしなければならなかったし、13:00から帰宅時間を告げるチャイムが鳴るまでしか外には行けませんでした。
お小遣いも、母の見えるところに貼った紙に買ったものや使ったものの名称と収支を1円単位で書き込まなければ使えなかったので、自由に使えるわけではありませんでした。

初めて、ゲームも買ってもらえました。
Nintendoのnew3DSLLでした。
僕はこの頃から、日々の苦痛から逃げるように音楽に没頭しました。
うごメモやニコニコ、YouTubeなどで音楽を聴きあさりました。
ネット内での友達と繋がったりもしました。
沢山の人と関わる中で、僕は少しずつ自分らしさを尊重しら自信を持ち、自分の考えを口にできるようになっていきました。

中学校では、小学校の頃は入っていなかった部活にも入りました。美術部でした。

周りも自分もまた成長し、色々な人と関わりました。その中で僕は、自分の性別について考え始めました。ここで僕は、クエスチョニングであることに気付きました。
中学2年生から仲良くしていた女の子と、3年生になって付き合ったりもしました。
この頃、自分の性別のことやその子と付き合っていることを母に話したことがあります。
母は『普通の方がいいに決まってる』
『あんたは女でしょ?』
『そもそもクエスチョニングって何?男になりたいの?坊主にすれば?』
『男と女のどっちも好き?ぁ、両刀ってことね』
など、理解のない様子でした。
話しているときも、酷く軽蔑したような、あたかも気持ち悪いとでも言うような口調や表情でした。
最後には『あんたのことだし、あんたの好きにすれば?』と言われたので、それ以降僕はこの話をしていません。

ですが、今でも母は僕の『僕』という一人称に良い顔をしません。
なので、家の中では『私』と言うようにしています。僕にとってこれは辛いことですが、母に怒られるよりはマシだと思って耐えています。


中学3年生になった頃のことでした。この時期になると、そろそろ自分の進路を決めなくてはなりませんでした。
そこで母と僕は、僕の進路について話し合いました。

母『〇〇(僕の名前)は何になりたい?』
僕『んー…まだよくわかんない』
母『〇〇は実験とか好きだよね?』
僕『うん、好きだよ』
母『じゃあ薬剤師とかどう?人と話さない仕事だし、〇〇に合ってると思うんだよね』
僕『うん、いいかもしれないね』
母『じゃあそうしよっか‼︎国家公務員がやっぱりいいしね‼︎』

とまぁ、会話内容はこんな感じです。
僕には明確な目標がなかったので、母の意見をそのまま飲むことにしました。
ですが母は『国家公務員』という肩書きを僕に持って欲しかったのだと今では思います。というのも、弟や僕に、国家公務員になることをことあるごとに強く進めるからです。進路を決めるのは僕ではなく母、みたいな力関係が出来上がっていました。

高校は近くの、偏差値55くらいの学校に進学しました。本当は偏差値が69まで上がっていたこともあり、もっと上の高校を目指すことも考えていましたが、母からの罵倒などにより自信を失っていた僕は、自分じゃ受かるはずがないと思い込み受けるのをやめました。その時通っていた塾の先生には残念がられましたが、これは仕方ありませんでした。

この頃に、母が父と裁判をしにいきました。
そして、離婚しました。
父名義だった家を出て、母が建てた新築の家に引っ越してきました。
これが、今の家です。

高校進学の為に、僕は沢山勉強をしました。
模試も沢山受けました。
ですが、その最中に、びっくりするようなことが起きました。
それは模試の数学の問題を受けている最中でした。
急に…昔の夢で見ていたあの…今でも怒られるたびに思い出し、怯えているあの、母が私に向かって物凄い勢いで怒鳴りつける様子が、鮮明に思い出されたのです。
私は動揺し、冷静に思考を保つことや問題を解くことが全く出来なくなってしまいました。恐怖から涙がこぼれました。
なんとかその時は席に着いたまま自分を落ち着かせて、再び問題を解く作業に戻ることができました。
これがいわゆるフラッシュバックなんだ。と実感した最初の出来事でした。
今でも、たまに起きることがあります。


高校に進学してからは、人間関係がガラッと変わりました。
近くの高校ですし、知ってる子もいましたが、さすが高校だな…という感じがしました。
色んなところの色んな子がいましたし、知らない子ばかりでした。
でも、それが僕にはありがたかったです。
最初は慣れなくて戸惑い、少し不安になった時期もありましたが、すぐに打ち解けました。

高校進学に合わせて、スマホも買ってもらいました。
中学校の頃使っていたゲーム機の制限つきのブラウザよりも、広く色々な人達やメディアとの接触が出来るものを手に入れた僕は、中学校の頃よりも更に自分への自信や自分の人格、個性、趣味、意見などを確立していくことができました。

そのおかげで色々な人と話すことができるようになった僕は、生徒会に入ったり、部活を兼部したりもしました。
すぐに高校に馴染めたのも、スマホがあったからなのかもしれません。
この頃も母の態度は依然変わっていませんでしたが、こんなに長い間付き合っていると、慣れてきていました。





しかし、慣れたからといって辛いことがない訳ではありません。

今もまだ母は性別を認めず馬鹿にします。

子供は親の言うことを黙って聞いていればいいと意見を聞いてもくれません。

運良く話し合いになっても都合が悪くなると『あぁ煩い、あんたと話してもキリないわ』と途中で逃げます。

そんなこと気にする⁈みたいな弟に対しては何も言わない細かいことで僕に怒ります。

僕の行動や進路を管理しようとします。

僕の容姿や服の趣味を馬鹿にします。

弟と比較して僕を蔑みます。

何事も完璧を望みます。

母が物凄い勢いで怒鳴りつける様子はトラウマとなってフラッシュバックを起こします。

誰と話していても怒らせないか不安になります。

また母の、その日気分によって僕にやつあたりをするところも全く変わっていません。
その時の勢いに任せて怒るので、意見もコロコロと変わり、僕が以前に母が言っていた通りにしていても怒られることが多々あります。
母は周りが自分の思い通りにならないとすぐに怒ります。職場もコロコロ変わりますし、家に帰ると愚痴ばかり。他の人や家族に対してもそうなので、そんな母の姿は我儘を言う子供のようだと、私はいつも思います。

そして母は、これまでのことや今のことも全てに対して
『あんたの為にやった』
『辛かったけどやったんだから感謝しろ』
『私は悪くない。悪いみたいに言うな』
『あんたが悪い。あんたのせいで苦労した』
『あんたを育てるのは大変だった』
『親なんだから叱ったり子供をしつけたり、おかしいことをおかしいというのは当然でしょ』
『あんたがそんなことされるようなことをしたからじゃないの』
と言います。罪悪感や、今後やめる気はないようです。


僕は母と一緒にいることが辛いです。
どうすれば、最後に列挙したようなことを解決したり、それから逃げたりできるのでしょうか?
また、僕が母を毒親というのは間違っていないでしょうか?
僕にも改善点があるのでしょうか?

回答、お待ちしております。