あり得ない話ではあるんですけど
例えばもしもある人が
私の住んでる県にあまり人が住んでいないと思い込んでいて
例えば私の住んでる県で私に彼女ができたとその人に報告した場合に≪なんでお前が住んでる県には人があまり住んでいないのに彼女ができたの?》ともしかしたら言われるかもしれないという不安が浮かぶことがあります。
その人が《私の住んでる県にたくさん人が住んでいるということを絶対に知っている》ということは確実に思えるのですが
その人が《なんでお前が住んでる県にはあまり人が住んでないのに彼女ができたの?》ということを絶対に言わないということは確実に思うことができません。
(なぜなら(その人がそういう風には絶対に思っていない)というのは相手のレスポンス関係なく思うことができますが(その人がそういう風には絶対に言ってこない)というのは完全に相手次第なので)
その人がそういうことを絶対に言ってこないと思うことは可能ですか?
そう思った方が良いですか?
それともそういうことを言ってきたとしてもスルーすれば良いと考えた方が良いですか?
どちらが良いでしょうか?
変な質問ですいませんが回答宜しくお願い致します。
誰でも歓迎 !
さとらない
π- 2018-02-28 11:19
とてもおもしろい(失礼だったらごめん)のでついコメントしてしまいます。
妄想の中だけではなくて、人は世界をどう見ているかは興味があります。
例えば昆虫の蜂は、誰にもいわれなくても六角形の巣を作るし、熊など黒いものを攻撃する習性があります。
これは六角形の巣を作るのが正しい(楽しい)、黒いものはその巣を壊し蜜を食べる(悪いヤツ)ので攻撃したいという遺伝的なものが組み込まれているからだといえます。
これはユング的に言えば、感情エネルギーをともなうイメージが遺伝していると言っています。(ただ人間の場合は遺伝するイメージはかなりぼんやりしているそうです)
ユング派の林道義先生の「無意識への扉をひらく」には、「心は、(感情エネルギーをともなう)イメージでできていて、そのカタマリが複数あって(心の複合体)、自我はそのカタマリの中心にその人の価値観があるもの」といっています。
さらに人間の心は複数でできていて、世界を自分の中の「いろいろな心」で感じ処理し、いるもの、いらないものに分けて、意識に残したり・無意識に沈めたりして、心を育てています。つまり人間は自分の価値観にあうもの・合わない物を感じ、うまく分別して世界を見ている
だから世界を見て感じているものは、その人の世界観(感情エネルギーを含んだ)イメージ)で見ているといえます。これを投影(まるで自分の(感情をともなう)イメージを映写機がスクリーンに映画を映し出しているように)というのですが、偉い学者に言わせると、98%は世界を自分勝手に解釈し見ている(自分の中にあるものを投影している)といわれています。
だからゆうじさんは、考えた世界で現実にはいない人(本当は自分じゃないもう一人の自分(シャドウともいう))の言葉に不安になってしまうのかも。
アドバイスとしては、東京などをイメージして人口がいっぱいいると心から思い込むか、神を想像してある力を授かったと思いこむのもおもしろい。
ただ、ここで問題なのがシャドウ(自分ではないもう一人の自分)の存在です。
人間には、自分の価値観にそわない自分(嫌な自分)をいつまでも心のなかに置いておかないで、自動的に心の奥深く(無意識)に沈めてしまう働きを、人間は持っています。だから自分の価値観に合わない自分と日常を送らなくてすむわけで、その無意識に沈めたもうひとりの自分をシャドウというそうです。
ゆうじさんもたまに感じると思いますが、自分の中の白い自分(自我)と腹黒い自分がいるのを。
シャドウは、怖いイメージ(エネルギー)の塊でありますが、白くありたい自分の心のバランス(補償)をとってくれる大切なものでもあります。
たとえば幸福な人生だってある程度の暗さはあるもの、それが当たり前のことだと思う。その「幸福」という言葉は、「悲しみ」によってバランスが取られなければ、その意味(色や香り)を失ってしまいます。
これが補償であり、実人生を生きることでもあります。
もう一人の自分と、時には対峙し、時には説得し、時には受け入れ、ともに苦難を乗り越えていくぐらいの気持ちでいければ、「勇者の道」が観えてくるかもしれませんね。