大学4年女子です。高校2年頃から強い抑うつを自覚していましたが、精神科への受診歴はありません。とにかく話を聞いてくれませんか?
(自分の脳内を整理する意味合いも込めてこの文章を書きます。)
まず私の人生の振り返りから始めます。
小学生までは人生薔薇色といっても過言ではありませんでした。狭い世界ということは勿論ありますが、勉強にも運動にも容姿にも自信があり、クラスの中心にいるタイプでした。6年の担任からは「天真爛漫」と評されたのを覚えています。当たり前に自分のことが大好きでした。ただ、私は高級住宅街のなかにある「市営住宅」に住んでおり、両親からも「うちにはお金が無いから」ということを幼い頃から聞かされてきたため、周囲と比べて裕福でないことにコンプレックスを感じていました。
中学時代に移ります。入学当初、ある文化部に入部しましたが、1年秋頃同じクラスの友人Aの勧誘でかなりハードな運動部(球技)に転部しました。先程運動は得意だったと述べましたが、ここで転部してはじめて「私は足は速いが球技が非常に苦手である」ということに気付きます。人生で初めての挫折でした。
また、この部活を通じて「いじめ」を経験しました。2年生の夏休み(厳密には7月末から2学期開始を少し過ぎた頃)で、部活が吐くほどきつい時期でした。いじめの内容は、無視です。猛暑、練習内容も過酷という肉体的苦痛に加え、夏休みという部活しかない生活で毎日毎日毎日毎日無視をされることは本当にきつかったです。無視されることは私の人間性を否定されることに等しく、この時初めて「私は私ではいけないのだ」と強く感じました。
夏休み中は2回ほど仮病で休んだと思います。母親には、恥などの複雑な感情から、それとなくしかいじめられていることを伝えていませんでしたが、今思えば母親は私の状況をしっかりと理解していたようです。その後、新学期が始まっても無視は続き、仮病を使って(いじめが嫌だから、とは言えませんでした)休みたいと親に駄々をこねる日が続きました。実際一日くらいは休んだように思います。
その後も死にたい気持ちで学校、部活を続けていたある日、突然無視が終わります。記憶が定かではありませんがその日のうちに「メンバー全員で集まって家で遊ぼう」と言われます。私は舞い上がりました。無視されなくて余りにも嬉しかったからです。どうしていじめが終わったのかなんて考える暇もありませんでした。私を無視しないでいてくれることが、それほど嬉しかったのです。その日の遊びで、「最近私たちの関係悪かったから話し合おう」みたいなことを告げられます。当時はいじめられていた原因が本当に分からなかったのですが、今はそういうとこ(原因が分からないということそのもの)こそが原因だったと思っています。どういうことかというと、度が過ぎた天真爛漫は時に空気を読まない無神経になり得るということです。
後にどうして突然謝罪されたのか理由が判明します。友人Bが私に「内緒だよ」といって教えてくれたのですが、どうやら私の母が顧問に「娘が心身の不調を訴えているのだが、部活内で何か人間関係に問題は起きていないか」とメールしたということでした。そのメールを受けた顧問が私以外の2年を呼び出して何かあるならお前たちで話し合って解決しなさい、と。それで謝罪といった流れだったそう。Bの話しぶりから、恐らくメンバーにお咎めはなく、これはあくまでも「いじめ」ではなく「ちょっとしたいざこざ」と処理されたのだと悟りました。
これを聞いて、はしゃぎまくっていた心が一気に冷たくなりました。「ああ、私の親が遠回しなクレームいれて、顧問に促されたから謝ったんだな」と理解したので。内心腹は立ちましたが、私含め全員でいじめのことはなかったことにしました。腹が立とうがなんだろうが、いじめられないことが何より大事なので。部活メンバーいわば学年の中心で、先生からの信頼は非常に厚く、辞めたら生きていく場所はないと理解していた点もあり、加えていじめられたという事実を私のプライドが許さなかったので、尚更早く流してしまおうと思いました。その後はいわゆるキャラ変をし、とにかくいじられる道化になっていました。後輩に〇〇先輩変わりましたね!って言われたときに、そうならざるを得なかったので〜笑って思ったのを思い出します。
その後3年間部活を続け、内心の鬱屈した思いに目を背けながら、表面上は「わたしらまじ最強メン卍」のノリで卒業。本当にそう思っている自分がいるのもあながち間違いではなかったと断言できますが、正直この頃から自分の気持ちを誤魔化しすぎて何が何だか、自分は本当はどう思っているのか分からなくなっている節がありました。
こんなこともありましたが、中学の部活は総合的に最高に楽しかったと言えると思います。無視は辛かったですが、結局部活以外の学校生活を楽しくしたのも部活のメンバーに変わりはないですから。またAの誘いで、当初考えていた偏差値65くらいの高校の受験をやめて、70の高校を受験します。
高校時代。ギリギリ(恐らく最下位あたり)、偏差値70の高校に合格出来ました。私は中学(という狭い世界)では80人中5番くらいの成績でした。もうこの頃には自分程度の成績の人間は県内だけでもゴロゴロいるし、正直自分はまあ中学では比較的出来たようだけど物凄く要領が悪いと理解し、小学生の頃のように「私って頭いい」なんて到底思わなくなっていました。私を誘ったAは非常に要領がよく、努力家で、かなり良好な成績で入学したようです。
高校でも中学と同じ部活に入ることになりました。
高校ではこれまでと比にならない勉強量、難易度を強いられ、無限課題地獄でした。土日も課外授業で休みはなく、5時間睡眠で月月火水木金金を過ごすことになり鬱っぽくなります(元来ロングスリーパーで、心身疲れやすい方でした)。しかし、本当の地獄は2年の秋からです。詳しくは伏せますが訳あって、部活のハードさが跳ね上がりました。練習に体力面でついていけないことが増え、コーチから怒鳴られ摩耗日々(適切な指導の範囲であったと思います)。メンバー全員が学業と部活に追われ擦り切れ、ぼろぼろでした。それでも頑張れる子は頑張れます。私は駄目でした。毎日毎日死にたく、通学のバスでは寝ているフリして泣きながら通っていました。部活を辞めることは私のプライドが許さず、辞めるより死にたいと思っていました。帰路、バスで通過する歩道橋から飛び降りるのを何度も妄想しましたが、わざわざ途中下車して歩道橋に足を運んだことは結局ありませんでした。高校での部活は「失敗体験」と表現するのが最も適切です。あまりに恥ずかしいので言えませんが、多くの卑怯なことをし、自分で自分の人間性を疑ってしまうような行動を沢山とりました。後悔しかないです、でも。それでも、それでもです。あんな卑怯で最低で人を裏切り自分自身を嫌いになるような行いをしないと、あの高総体までの地獄の日々に引きずられる(あえて乗り越えるとは表現しません)ことは叶わなかったと思います。(人生で一番病んでいました。あの時ほど死にたい瞬間は来ないだろうと思っています。)
高校での部活を通して、私は私が汚くて到底生きる価値のない人間だと理解しました。今、こうして文章をしたためながら、高校の部活こそが私の中に存在する自己嫌悪、自分への不信感、能力・人格的な不足感の要因だと実感するばかりです。
あの競技のことは大嫌いになりましたし、未だにコーチに怒られる夢を見ます。
そして何より辛いのが、こうして被害者のように語っている私こそが何よりの加害者だということです。生き恥とはこういうことなのかと、死んだ方がマシとはこういうことなのかと、高校卒業後4年間も生き永らえてなら感じています。
部活が終わり、受験に話が移ります。受験シーズンもずっと病んでいました。暫くは部活での辛かった出来事がフラッシュバックし、引退してもずっと部活にまつわる負の感情に支配されていました。短いながらもこれまでの人生を通して、私は自分に対する不足感を抱え、このままではいけない、「人の役に立つことで、自分を認められるようになりたい」と思うようになり、看護師という職業につくことを希望しました。もう、この時点で明らかに動機がおかしい。勿論、他にも理由はありました。目標にしていた総合大学でも看護科なら手が届きそうで、配点の高い科目が自身の得意科目と一致している、家族に看護師がいた、昔から金持ちへのコンプレックスがあり看護師ならそれも常に職場があり金銭面でも困らない、など他にもたくさんあり、様々です。まあ、何より看護師とは専門職ですからスキルを身につけ「これまでの自分ではない、誰かの役に立て、自分を含む誰かから必要とされる私」になりたかったのです。受験シーズンも色々ありましたが、結果最下位(成績開示で確認したのでマジです)で合格しました。
大学時代。あまりの自由に感動しました。私は全力で何もしなくなりました。単位はしっかりとりましたが、それ以外は半引きこもりです。中高こっそりしてたオタク活動にどっぷりになりました。はじめてソシャゲに手をつけ、アニメを見まくり、pixiv漁りまくり、Twitterしまくり、二次創作もしました。ちなみに今現在までオタクをカミングアウトしたことはありません。2個上の姉がオタクだったのですが、中学で姉の所属する部がオタクだと周囲から白い目を向けられているのが分かり、絶対に言いたくなく、私自身中高は言動に表さずともオタクを白い目で見る雰囲気になじむようにしていました。けれど、ここは大学。うまくやれば誰にも干渉されず、上手く誤魔化せば存分にオタ活できる。オタ活にのめり込んではじめて、私はオタクとして排除されるのが怖く、またそれを私のプライドが許さず、本当はきっとずっと長い間趣味を謳歌したかったんだと気づきました。今では姉より余程私の方がオタクになりました。
1年では過食で激太り、2年では過食嘔吐で-10kgなどひどい生活でした。
それでも何とか表面上はまともに学生生活を送り、単位を取り、そして迎えた3年生。実習が始まりました。看護学生の実習といえば、「罵声を浴びせられることもしばしば、泣きながら帰ることもしばしば」みたいなことが往々にしてあると思いますが、私の実習先はおそらくかなり優しかったと思います(実際、上から「1年目、実習生に冷たくあたるな」と指示されている)。それでも、これまで家に引きこもり、ゆるいバイトしかせず、当然コミュ力も高いとは言えない私には難しいことも多々ありました。しかしそれ以前に困ったのは、計画性のなさ、物事の優先順位がつけられない、調整力のなさ、主体性のなさ、要領の悪さ等、「自分自身でもどうしてそんなところでそんなミスをするのか?訳分からなすぎて怖い」といった次第でした。そんなこんなありつつもなんとか実習を乗り越え、4年に進級し、いよいよ就活が始まります。気にしすぎかもしれませんが、ADHDを疑っています。とにかく頭がふわふわするし、頭が常に雑多な不安や悩みでぐちゃぐちゃでろくに機能していないような感覚があります。近年した訳分からないミスは、試験を日付けを完全に誤解してブッチする(その試験だけ、他科目と日付が離れていました。試験間隔が空いたため、友達とも事前に連絡を取らず誤解に気付けませんでした。毎週水曜四限の科目だったため、試験もそれに従うと思っていたら実際は火曜4限にあった)、などです。とにかく、他にも書ききれないくらい訳の分からないミスがあります。ADHDなのか、ただ頭の悪いポンコツなのか分かりませんが、人命を扱う看護師という職業に就く以上はっきりさせないのはどうか…という気持ちがあります。
それに、以前から嫌なことを後回しにする癖はありましたが、それが単なる怠けなのかADHDの特性なのか分からず、1度ADHDと疑えば「そういえばあれもこれも…」とまるでADHDと解釈してしまうような見方しかできなくなりました。
何より辛いのは、ポンコツなミスをするたび酷く落ち込むことです。そういったときは死ぬ妄想をしてしまい、ロフトのはしごから首を吊ろうか、近くの海に入水するかなど出来もしないのに延々と考えてしまいます。
ずっと死にたいわけではありませんが、高校2年くらいから大学4年の今日まで発作的に死にたいと強く思うような毎日を過ごしてき、正直そろそろ受診すべきなのかと考えています。というか、単純に「助けて欲しい」と思います。助けて欲しいです。どうにかして、と思います。もうどうすればいいのだろう。こんな自分が生きていていいわけがないし、ただ生きているだけを容認するような社会はない。私は私を受け入れられないし、私を辞めたい。どうせ私には無理だと言い訳する毎日が窮屈でしょうがないのに、それが辞められない。真っ当に生きていく未来がみえない。
(※終始被害者のような目線で書いて申し訳ないのですが、私は人として最低だと言われても可笑しくないようなことをした悪人です。甘えるなと一蹴されても仕方ないと思います。読んだ方、不快にしたら大変申し訳ありません。
※中学の「いじめ」について
いじめは絶対にいけないことで、許されるべきことではありません。いじめた側が悪いと思っています。
ただ、これは持論ですが、「いじめられた側に原因がない」というのは必ずしも正しくないと思います。勿論そういう場合もあるでしょう。しかし、対人関係という人と人の相互作用である以上、いじめられた側に原因がないはそれこそありえないと思っています。一つ注意しなければいけないのが、その「原因」がいじめていい理由にはならないという点です。私は一切、絶対にいじめを肯定しません。
ただ、私の場合、何点からいじめの原因に思い当たる節がある分、余計にいじめに発展するまで部活メンバーに不信を抱かせていた現状に気付けなかった自分の呑気さに苛立ちを覚えます。)
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参考:似ている悩みと対処法
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