65歳大企業の元主席技師でいま国立大の社会人博士後期課程学生です。甥(いま20歳)が発達障害で障がい者手帳をもらっており、それを機会にASDを調べていて、これはまさに自分なんじゃないのか?と思い始めました。

4~5歳のとき、親に神戸港へ大型船を見に連れて行かれ、大きな汽笛が鳴ったら怖くなって帰ると言ったそうです。今でも掃除機や草刈機、チェーンソーなどの大きな音は怖いです。毎夏、ドブの消毒の機械がまわってきてそのウーンという音がとても怖かった。しかし消毒の霧を出す口がグルグル回るのが興味深かった記憶があります。神戸の震災で有名な鷹取幼稚園では、わけの分からないものを拝むのはおかしいと思ったので絶対にお祈りをしませんでした、歌を歌うということもイヤ、恥ずかしい、というこだわりがあって絶対に歌わなかった。母がオタオタしていましたが子供心にアホかと思っていました。幼稚園のお遊戯発表会か何かで王子様のキラキラひらひらした衣装を着せられたのは一生の不覚で地獄でした。小学校一年生になるときこれからは歌を歌うんやで とむりやり約束させられたのですが、集団の時は口パクでごまかしました。いまでもカラオケは絶対やりません。先生の授業は時計以外はサクサクわかるのでろくに勉強も宿題もしない。男女の性器の違いなど純粋に物理的な構造に興味があったので大人から見れば性的な奇行と扱われ問題児扱いされました。(イタズラなど他者への性犯罪みたいなことやお医者さんごっこなどはしていません)哺乳類と鳥肉は屍体としか思えず気持ちが悪くて死んでも食べないので小学校給食では昼休みはナシ。級友から肉嫌いとののしられ、教師に肉を口にねじ込まれました。出張で頻繁に欧州に行くようになってどこのレストランでもベジタリアンメニューがあることに癒され許された思いがしました。父にキャッチボールをしょうと誘われたのですが何もおもしろいと思わなかったのでさっさとやめて父は落胆したそうです。野球やビー玉遊びも缶けりも、まったくおもしろいと思わないので小学校時代の友達はゼロ。給食で残されない昼休みはひとりで運動場の周りを、何か空想しながらぐるぐる回っていました。眠る前に頭の中で人力自動車や潜水艦や機械の設計を空想するのが好きでした。遠足、運動会、修学旅行などの集団行動は地獄でした。多分IQテストがあって教師が驚いてなんでこんな成績なの?と親に言っていました。だいたい3が並んでましたので。学校帰りにプラモデル屋の陳列ケースを長いこと眺めるのが唯一楽しみでプラモデルにハマっていました。小学校の図書室の本はほぼ制覇した一方、天馬博士、お茶の水博士とテレビの修理屋さんがヒーローでした。父からは、おまえは偏屈や利己主義や、落伍者になるぞ と言い続けられ、10歳からメガネをかけたので、ちょっと触ったら顔面神経痛か!触るな!と父に監視し続けられていました。私はあかんたれの偏屈、いとこのトオル君は賢いいい子 でした。5年生から担任が男性教師になって成績が急にあがりだしたのですが、テストとかサッサと回答して見直しをせず教室から出てしまうのでぽんミスが多かったです。今でも経費精算とか出張精算とかのつまらないと思う仕事はミスだらけです。中学校で成績は上位だったので学級委員にずっと選ばれて友達はできましたが相変わらず体育会、水泳大会、文化祭は気に病みドキドキ緊張する状況でした。興味が偏ってるので興味のない体育や音楽はペーパーテストもできず2以下。技術家庭、理科、数学、国語はだいたい5、ほかは4。工業高専に行っても他の若者と興味が違うので、とっとと家に帰ってこもっていました。就職後に紆余曲折して大学に編入したのですが研究室で助手が声かけて集団で学食に行くのが苦痛で昼前に逃げるようにしていました。研究テーマは解析計算でおもしろくなかったので工夫して実験モデルを作ってなんとか卒業しました。就職してからも宴会は苦痛で酒乱の父のせいで酒がまともに飲めませんでした。職場は周囲の音や人の動きや特に女性が苦手で気になり、緊張の連続で、それでも集中はできたのですが結局組織になじめないため転々と会社を変わりました。10年いたO社で次から次に新しいことやり成功もさせましたが 上司を結婚式に呼ばないような奴呼ばわりされ、30年前に、わずか3週間ほどの育児休暇をとったり、居室内喫煙のことでもめたり仕事と関係ないことで異端児扱いされました。会社での集団研修のグループ討議と発表などは吐きそうな思いでした。現職は16年つづきましたがR&Dセンターは狭くて、立ち話する人らの話声がうるさく集中出来ないので、この時は主席技師(部長相当)の立場でしたので事務所移転に際してデスクを世界標準のパーテションで囲め、雑談は別の場所でやれ と主張してだいぶ取り入れられました。パーテションは実現しませんでしたが皮肉にもコロナ禍でパーテションせざるをえなくなりました。またコロナ禍のテレワークで周囲の音のストレスはなくなり本当に集中して研究ができるようになりました。ずっと緊張感や不眠、閉所恐怖、広場恐怖など、最近はまでうつで心療内科に通っていました。先月で再雇用も終わり完全に会社を退職しとても開放された気持ちです。技術者の最高資格である技術士資格は40歳で取得しましたし、工学博士も取得できると思います。先端技術研究を早くから進めてきてようやく認められるようになり、いま複数社から顧問をしてほしいと言われています。「人柄がいい」と言われて自身ではとても信じがたい思いです。年齢で丸くなったせいでしょうか。いま妻と娘とは別居して山奥の山荘でネコとの生活を楽しんでいます。時々帰宅しますが、やはり独りがいいです。
こんな私は、ASDだったのでしょうか?